死を想うとはどういうことか?(2014年9月20日)

~告知~

日時 : 2014年9月20日(土) AM10:00 - 11:30

テーマ:「死を想うとはどういうことか?」

進行: 加藤匠

場所:カフェティグレ伏見店 

(名古屋市中区錦1丁目10-11  地下鉄「伏見駅」10番出口 徒歩1分)

参加費:飲食代実費(390円~)

100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

備考:

①定員15名。人数把握のため、なるべく事前の参加申込み をお願いしております。ご協力くだされば幸いです。

②カフェ当日は、参加者一同の許可を得たうえで、写真撮影(ホームページその他での報告のため)と、対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。

 

《ご案内》

 現代社会では、病院死の増加や核家族化などにより、死に触れたり考えたりする機会が失われていると言われます。しかし一方で、それへの反省もあり、教育現場における「いのちの教育」や、終末医療における精神的なケアなど、死について考える/考えさせることの重要性が叫ばれます。

 確かに、死について考えることは、人生の一回性・時間制限を意識し、より内容の濃い人生を送ることにつながるかもしれません。しかし、そのような認識のもとで送られる人生は、なにか強迫的なものになるようにも思えます。また、教育として子供や終末期の患者に死について考えてもらうことは、死への過度な恐れをなくし、受容させ、生に目を向けさせることもあるでしょうが、必ずしも最適な手段ではないかもしれません。死を見つめることが、かえってその恐怖を増幅させてしまうことも考えられます。そしてなにより、一言に死を想うといっても、人生のいつ、どんな方法で、死の何について考えるのか。人生観が十人十色であるように、人によって様々なあり方が考えられます。

 今回の哲学カフェはこのようなトピックについて、参加者のみなさんの考えや体験を出し合い、死を想うことの意味や方法について、あらためて考え直せればと思います。

 

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは「お問合せ」にてお尋ねください。

~記録~

~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 6 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    落合だいもん (火曜日, 09 9月 2014 08:43)

    お初におめにかかります。
    次回初参加を予定してます落合です。

    今回のテーマ、死そのものではなく死生観と共有するには? っていうことを考えるってことでしょうか。

  • #2

    みうらた (水曜日, 10 9月 2014 14:38)

    落合さま、コメントをありがとうございます。
    哲学カフェにおいて、テーマはいわば対話の呼び水みたいなものですから、広く「死を想う(考える)」ことの意味についてみんなで考えるんだなと思っておいていただければいいのではないかなと思います。
    対話の流れの中で「死そのもの」についての意見や「死生観を共有することはできるんだろうか?」という問いが出てくるかもしれませんし。

  • #3

    落合だいもん (水曜日, 10 9月 2014 15:46)

    はーい。
    あまり構えずにいきますー。

    ありがとうございます。

  • #4

    落合だいもん (土曜日, 20 9月 2014 20:24)

    本日はありがとうございました。
    死について、意見や体験談が聞けて良かったです。

    死を想った結果についてはまだまだ踏みこみきってないような気もします。
    とはいえ今回初参加でしたがいっぱい考えることができました。食事会も含め、ありがとうございました。

  • #5

    安田 (土曜日, 04 10月 2014 14:04)

    随分と日が経ってしまいましたが、この日話し合ったことにも深く関わる記事をネットで見かけたので、シェアします。(正確にはカフェフィロの松川さんがFBで「いいね」してたのをみました。)

    http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=60441

    「欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか。」というタイトルの、読売新聞系の医療サイトの記事です。本当に欧米には寝たきり老人がいないのか、データを確認する必要はあると思いますが、記事の内容は考えさせるものです。

  • #6

    落合 だいもん (水曜日, 08 10月 2014 17:37)

    記事を興味深く拝見させていただきました。
    僕自身は延命についてやや推進派なので、今日の延命は不要という風潮に疑問を感じないわけではありません。

    サイトの文章も延命は不要、との見解を基本にしていると思います。
    せっかくの少数派だと思うので少し長文になりますが意見を述べさせていただきます。

    合点がいくのは本人の希望に準じたほうが良い、という結論ですが、疑問に思うのもまたその点にあります。終末期の本人の意思がない場合、生前の意思表示がなければ家族が胃ろうや呼吸機の施行を家族が判断します。
    ここで疑問に思うのは本人の意思とは何だろう、ということです。
    本人の意思と人間そのものの意思は同じものなのでしょうか。苦しいのは嫌だから延命しない、というのはわからないでもないです。ただ、本人の意思は家族や自分の大切な人とともに作られているはずです。
    サイト内の文章では、
    「88歳の男性患者さんは、脳梗塞を起こし数年前から入院していました。胃ろうで栄養補給を受けていましたが、寝たきりで、言葉は発せず、家族の顔もわかりません。気管切開もされており、痰の吸引や気管カニューレ(気管の穴に入れたチューブ)交換のたびに、体を震わせて苦しみます。しかし、患者さんの妻は『夫は私の生きがいなので、1日でも長く生かしてください』と言います。」
    とありました。気になるのは「しかし患者さんの妻は」との記述です。端的に言えば死にたいと思ってる本人の意思とは裏腹に、という意味での「しかし」でしょう。本人の意思を本人の苦しみにのみ切り取っている扱いなのです。その人の人生はその人のものだけではありません。妻の生きがいのためなら苦しみをも乗り越えようとする意志があったのかもしれません。
    そこを汲まないのは延命しないのが正しい、という言外の圧力を産んでいると思わせます。

    また、人間の尊厳についても考えさせられます。サイトの文章を抜粋します。
    「全くものも言えず、関節も固まって寝返りすら打てない、そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の認知症患者を目の前にすると、人間の尊厳について考えざるを得ません」
    とありますが、人間の尊厳とはなんでしょうか。ものも言えず、寝返りすら打てないとありますがものを言って寝返りを打てるのが人間の尊厳でしょうか。
    僕はそうは思えません。寝たきりの人に、認知症の方には尊厳がないのでしょうか。そもそも尊厳とは何でしょうか。心理学者のアドラーは存在していること自体に人間の意味を見出しています。尊厳はたとえどのような状態であれ、その人を「名前のある生活者としての個人」とみる視点、他者との関係によって作られる「関わりある人間」そのものなのだと思います。尊厳は他者によって作られると考えられるのです。
    死を目前にすると「死にかけ」として、終末医療の適用者としていきなり健常者の世界から切り取られます。本人の意思という個人のみに焦点をあてます。ですがその個人は関係性の中で生活しているのです。
    これは死自体を遠ざける所業でもあるとおもいます。

    そもそも尊厳死、という言葉はあえて尊厳という冠を死に対してかぶせています。あえて言わなくても人間には尊厳があり、ゆえにすべての死には尊厳が備わってしかるべきです。食べれないのは、寝たきりなのは尊厳のある生ではないというのは健常者群の言い草ではないでしょうか。真に尊厳が立ち現れるのはそこにただいる何者でもない人間に対し名前を呼び、声をかけたこちら側がうむ感動なのではないでしょうか。

    ちなみに日本尊厳死協会ですが、以前は日本安楽死協会でした。聞こえが悪いとのことで名前を変えたそうです。そして発起人は優生保護法の強力な推進派である太田典礼氏
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%85%B8%E7%A4%BC
    です。

    ほぼ経済的な理由からマイノリティを追いやった福祉の真逆の発想が、根本に今も生きているというのは穿った見方かもしれませんが、我々が生きている社会は経済や思想によって構成されています。常識に基づく判断が、社会会権力によって知らないうちに刷り込まれている可能性も等しく否定はできないと思います。何が言いたいかというと、今日の尊厳死を推奨するこうした風潮も「本人の意思」に食い込んできているのではないかということです。
    もし延命しないという選択が「社会や家族の迷惑になりたくない」というニュアンスを含んでいるなら、その迷惑と思わせてしまっていることを問題にするべきではないかということです。あるいは迷惑だ、と言わせている社会常識は人間的ではないのではないか、ということなのです。

    少し話が逸れてしまいました。
    もし自分が寝たきりになりたいかと言えば感情的にはノーです。それは自分のことだけを考えたときです。ただし、孤独ではなく、誰かが必要としてくれるなら、その人が求めて、寝たきりの僕をその人のために愛してくれるならまんざらではないのでは、とも思います。
    逆に言えば寝たきりは誰にとっても不要で愛の対象とならないなら、人間の尊厳はそこまでです。

    寝たきりを無くすこと方法が予防や回復の観点からなら納得もいきますが、延命させない、という理由であるならば、今一度人間の尊厳と存在について考えなおす余地があると感じました。
    ともすれば理想論であり、社会経済的に非効率であったり愛されるか否かでかわるなら倫理の求める普遍さに適うものではないかもしれません。
    ですが、人間そのものとして命を長らえさせることを、ただ批判的にみるべきではないのではないでしょうか。