メタ哲学カフェ 第七回

対話とは?(2015年2月1日)

~告知~

カフェぶーれ
カフェぶーれ

■ 日 時 :  2015年2月1日(日)11:15 - 13:15

                                     (時間にご注意ください!)

場 所: 名古屋駅西 カフェぶーれ

     (名古屋市中村区椿町6-27 ホテル ル・ウエスト1階)

     名古屋駅新幹線口から西へ徒歩2分

テーマ: 対話とは?

題 材: 『弱いロボット』 岡田美智男 著 (医学書院)

進 行: 安田清一郎

参加費: カフェぶーれでの飲食代実費(300円~)

定 員: 12名 

申込み: 不要(ですが、人数把握のため、事前に参加のご意志がある場合はなるべく参加申込みをお願いしております。)

問合せ/申込み先: staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 開催場所(カフェぶーれ)はAM11:00開店です。それまでCLOSEDの札が出ていますがお休みではありません。

② ホテル ル・ウエストの1階ロビーは宿泊客専用ですので、ぶーれ開店前の待合場所としても、ご利用はご遠慮ください。

③ 100円程度の寄付を参加者有志からうけつけています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

④ 当日は、参加者一同の許可を得たうえで、写真撮影(ホームページその他での報告のため)と、対話の録音(研究のため)をさせて頂いております。

 

《ご案内》

『弱いロボット』というタイトルの本が題材で「対話とは?」というテーマ???この本の第3章を読めばわかると思います。(読むのに工学系の専門知識は不要です。)ここに描かれる「対話」観に賛成の方も、反論・疑問のある方も、ご気軽にご参加ください。哲学の知識は不要です。

 

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記フォーラム)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは上記問合せ先までお尋ねください。

~記録~

哲学カフェの様子

~フォーラム~

以下の掲示板(フォーラム)は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    山方 (土曜日, 31 1月 2015 18:45)

    以前「哲学的対話について」がテーマの時に、「対話」に関する論点を挙げたことがありますが、今回は、『弱いロボット』のテツドクでもあるので、同書第3章に限って、論点を挙げてみます。
    先ほど読み終わったばかりですので、前日のこの時間帯の投稿になりました。すみません。
     基本的に、雑談から哲学カフェや会議まで含めて妥当するなと思われる論旨です。気になった点だけ列挙します。
    ①見えの変化によって自分自身の存在が立ち現れてくるという自己認識の感覚すなわち「生態学的な自己」が自分であるのであれば、哲学カフェの「自分の頭で考える」「自分の言葉で話す」というときの「自分」は「生態学的な自己」として変化し続ける移ろうものであるのはよいのですが、そもそもスタート時点からしてですが「自分」というものは存在するのだろうか。存在するとしたらどのように存在しているのだろうか?②「『私たちは何を伝えようとしているのか』ではなく、お互いは『どのように伝わっているのか』にそもそも関心がある」ということがプライベートな場面での発話や対話や会話の機能や現象の記述としてはよいかなと思います。ここから先は私の積極的誤読の賭けなのですが、それでは、公共の場での対話において、「賭け」と「受け」の拮抗したカップリングの安心感は他者との過剰な同調を生むあるいは自己の発言に無責任になることにはならないだろうか。例えば、「私は内心では反対だったが、その場の空気では反対できなかった」という弁をよく聴きます。「賭け」のない「受け」ばかりかもしれません。不協和を引き起こす対話は自然に反することであり困難ということなのだろうか。どのようにしたら不協和や不快感を越えた対話が可能なのだろうか。③応答責任が引き出されるのは、発話の期待を「身体を介して知っている」からと身体性が根拠に出されます。これは自己自身が他者から働きかけて応答責任を感じるということには妥当するなと思います。インターネットでは身体性のない発話が飛び交っていますが、とりわけ便所の落書きのような誹謗中傷や人権侵害あるいは不快感を催すような、いわゆる「賭けの無い」発話が飛び交っています。「投機」と呼ぶに値する投機的ふるまいでもなく、グラウディングを期待していないともみえます。ヘイトスピーチであれ、イスラムの風刺画など、支え合う基盤がないようにみえるとき、規範的な意味での「対話」はどう成り立つのだろうか④「なぜ意図や想起内容を整えてから、きちんとして話そうとしないのか」これは、「対話は哲学することを邪魔する」とさえいって哲学対話や哲学カフェを否定する人の弁としてあります。哲学カフェ嫌い、哲学対話否定派に対して、どう応えればよいだろうか?