メタ哲学カフェ 第九回

哲学カフェにおける他者とは? (2015年5月10日)

~告知~

カフェぶーれ
カフェぶーれ

■ 日 時 :  2015年5月10日(日)11:15 - 13:15

場 所: 名古屋駅西 カフェぶーれ

     (名古屋市中村区椿町6-27 ホテル ル・ウエスト1階)

     名古屋駅新幹線口から西へ徒歩2分

テーマ: 哲学カフェにおける他者とは?

進 行: 井下賢一

参加費: カフェぶーれでの飲食代実費(300円~)

定 員: 12名

申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)

申込が11名に至りましたので、申込受付を終了させて頂きました。残っている1席は当日飛び入り参加の方が現れたときのため空けておきたく。なお、当日参加ももちろん歓迎なのですが、必ずしもお席を確保できるとはかぎりませんので予めご了承ください。ご理解頂けましたら幸いです。

 

問合せ/申込み先: staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 開催場所(カフェぶーれ)はAM11:00開店です。それまでCLOSEDの札が出ていますがお休みではありません。

② ホテル ル・ウエストの1階ロビーは宿泊客専用ですので、ぶーれ開店前の待合場所としても、ご利用はご遠慮ください。

③ 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

④ 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

哲学カフェは一人ではできません。自分以外の他者を必要とします。ではその他者とはどのような存在なのでしょうか? そして他者をそのように考えることは哲学カフェにどのような影響を与えるでしょうか? 今回は哲学カフェにおける他者について、みなさまとともに考えていきたいと思います。

初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。

 

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記フォーラム)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは上記問合せ先までお尋ねください。

~記録~

Twitter速報

facebook報告

だいぶ遅くなってしまいましたが、報告です。5月10日(日)にメタ哲学カフェ「哲学カフェにおける他者とは?」が名古屋駅西口のカフェぶーれで行われました。今回は浜松や京都などからもお越しいただき、初参加3名の方を含め定員一杯の15名の方た...

Posted by 哲学カフェ@名古屋 on 2015年5月22日

~フォーラム~

以下の掲示板(フォーラム)は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 8 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    高橋 (金曜日, 24 4月 2015 20:19)

    哲学カフェにおける他者≠他人
    この関係は成り立つのか?
    他者と他人の違いを
    考えていたら抜けれなくなってしまい
    同じところを考えてしまう

    他人とは身内ではない人
    同じグループに属している人も他人ではない
    とは限らない
    個人差があり同じグループに属していても他人でもある
    初対面の人は他人である
    終了した時点では他人といえるのか?
    では哲学カフェで再会した人はどうなのか?

    同じ時間を同じ場所で過ごし
    共通の題材を話し合ったグループである
    しかし同じグループというには若干問題を孕んでいるとも思われます
    哲学カフェにおいては同意も合意も任意である
    共通の方向にはなんとなく向いているが
    特に同じゴールに到着する訳ではない
    開始時間も終了時間も個人レベルでは変更可能である
    発言もしないことが可能である
    会話を遮ることはルールから外れるが
    発言を聞いていないことは可能である
    これでは組織と考えると組織の一員でないと判断することもでき
    その場合には他人であると言えるのだろう
    ただし関係を個人レベルで考えてみれば
    家族や友人の間では同意やゴールが違っても
    なにも問題はない
    このあたりのことを考えていくと面白そうだが
    考えを進めるためのデータをあまりに持ち合せていない
    残念ながら今は行き止まりのようである

    自分の事として考えて参加している人は
    終わった時点では他人事とは言えないかもしれないが
    そのことを判断する基準はおそらく参加者それぞれの
    主観に委ねられ外部からは窺い知ることは難しい
    しかも当事者ですら時間を置かないと
    経験したことの価値を見出すことができないかもしれない

    では哲学カフェ側から見ると?
    そもそも哲学カフェという存在とは?という
    更に見通しの利かない道に立ち尽くしてしまう
    運営側とするならば参加者となるので他人ではない
    見る側が変わればシンプルに答えが出る

    もう少し考え続けてみたいと思います

  • #2

    山方 (金曜日, 01 5月 2015 09:56)

    高橋さんのコメントを読んでの感想です。

    今の私と明日の私は同じだろうか?
    結婚、交通事故、犯罪、何かの出来事で、「回心」のように、あるいは価値観が「転向」するとしたら。

    哲学カフェの前の私は、哲学カフェ後の私とは同じではないとする。
    細胞が入れかわったとか、老化したとかではなくて。

    私が私を他者としてみなしたり、感じたりすることはありうるだろうか。
    哲学カフェの間に、自分を反省している時、自分の中にあるかのように設定する、自己を見つめる自我は他者視線といえるか。または見つめられる自己は他者のようなものだろうか。

    屁理屈ですみません。

  • #3

    高橋 (土曜日, 02 5月 2015 08:08)

    山方さんありがとうございます。

    私は過去の自分を他者として見れるようになりたいと思っています
    人はかわると思っているので自分を他者としてみれる
    「今の私と明日の私は同じではない」と思っています
    あるいは自分の視点が変わるので世界がかわってみえ
    自分がかわったと思っているのか

    自己を見つめる自我は他者から視線であると同時に自己であり
    見ている自己も見られている自己も自己である
    自己を他者としてみると同時に
    他者としての視点で自己をみる

    私の中では自己と他者に境目がないのではなかろうかと
    漠然と思っています

    時々対象を自己として認識している自分がいます
    特に外部から対象が攻撃を受けると
    まるで自分が攻撃されているかのように錯覚してしまう
    そのことを勘違いと判断するのか
    拡大した自己と判断するのか
    家族なんかは特に境目にバリエーションがありそうです
    他にも運転中の自分の車
    グループを組むタイプのネットワークゲームの仲間
    チームを組んでいる時の仕事の仲間などなど
    そして
    とても充実感を感じた時には
    世界が自分のためにあるように感じ
    まるで自己の延長であるかのように愛しく感じることもあります
    逆の場合ありますが・・・

    哲学カフェの前と後で
    自己の認識が大きく変わるような事はないかもしれませんが
    参加の経験が浅い私にとっては
    哲学カフェに参加する意思を持った人との
    出会いだけでも大きな変化です

  • #4

    高橋 (日曜日, 03 5月 2015 21:15)

    問の傍らには他者が立っている
    あるいは私の傍に一緒に立っているのか
    問その物が他者なのか
    まるで鏡のように
    私の姿を映しだす

    他者の中に自分を見出し
    思い悩んで問を求める
    求めがなければ
    悩みもないというのに
    なぜこれ程までに
    追い求めることは楽しいのだろう

    答えを求めて千里を歩もうと
    心の底を覗き込もうと
    すべては
    わたしをとおりぬける

    通りすぎるものはみな
    わたしではない
    しかしわたしのうちにないものを
    自我は受け入れることができるのだろうか

  • #5

    yamagata (月曜日, 04 5月 2015 09:15)

    「他者」を考える、語るということは当然「自己」との関係を考える、語るということでもあると思います。
     「私とは何か」は哲学カフェのテーマとしてよく取り上げられます。自分のことは自分が一番解ってるということ、身近な「自意識」を手がかりに考えられるからでもあり、自明であることを疑うことに「哲学する」醍醐味があるからと思います。
    「我(われ)思う。ゆえに我あり」という哲学者デカルトの言葉があります。疑うということを徹底しても、疑っているという「精神」としての我が存在することは疑えない絶対確実なものとデカルトが論証したとされる前提と結論の文章です。

    どうせなら、絶対確実なことをさらに疑う「哲学すること」を進めてみたいです。
    ぶっ飛んだ私の直感的結論では
    「我思う。ゆえに他者あり」もありではないか?そうであるならば、
    「我思う。ゆえに我々(自他)あり」もありではないか?

    自分が自分ひとりで「思う」ことなど、そもそもできるのだろうか?
    論理計算をするコンピュータと自意識のある人間の違いを
    デカルトと同じく自意識から始めてみます。
    自意識のなかに、対象として見つめられる他人のような「自己」と
    自分を他者の視点(言葉)で評価しようとする自我が、あるかのようにみえてきます。

    なぜそのようなことができるのだろうか?
    自分の中に、どうして他者の視点が「知識」のように取り入れられているのではなくて、
    自分が自分を越えているかのように、自分が他人であるかのように
    反省することができるのだろうか?
    発達心理学者ではないので、エセ科学的な着想なのだけど、
    他者とのコミュニケーション(赤ちゃんの時から呼びかけられる、見つめられる、笑いかけられる)を通じて、自我と自己が相互関係的に同時に生まれたのではないだろうか?
    他者は鏡となって、他者を通じて自己を知ることになり、社会生活ではカメラも映像もない時代であれば、他人(ひと)の振りみて我が身を直すということは道徳ならず自己を知るうえでは重要なことではなかっただろうか。
    他者なしには自意識は存在しえないのではないでしょうか。

    いったん、話題を哲学カフェの場で起きていることを考えるところから考えてみます。
    参加している私の意識は、参加者の発言の順番、発言の内容、発言の方法が一つ違うだけで千変万化します。私という自意識は、関係のなかでどのようにでも変化しています。

    哲学カフェの私以外の参加者を「他者」とします。
    自分と同じ意見の発言が出てくるとすると、自分と「同質的な他者」がいることにも驚いたり共感したりします。
    また、自分と意見が異なる「異質的な他者」が出てきて疑問や不調和な気持が起きます。
    質疑や対話を通じて、「異質的な他者」は共感したり、共感できなくても「理解」できる「同質的な他者」へと他者の質に変化が起きる場合もあります。
    また、全く同意もできないし、共感もできないし、反発する意見があり、ずっと「異質な他者」であり続ける人もいます。

    哲学カフェに参加している他者は「私に認知された異質的な他者」です。
    ここで注意したいのは、「哲学カフェ」の参加者は、「哲学すること」「テーマ」などに関心があり、参加できる時間があるなど、かなり偏ったバイアスの罹った他者であるということです。

    哲学カフェの外部には、哲学カフェを知らず、知っても参加しようとも思わない「他者」がいます。
    すなわち、「認知されていない他者」がたくさんおられます。
    その中には、理解、了解可能なものもあれば、理解を超えたもの、反発するものがあるでしょう。

    長文になってしまいましたが、実はこの先に考えたいことがあります。

    哲学カフェという場で起きていることを
    一人ひとりの心・身体で起きていることのアナロジーで考えることです。

    「他者が自分のしていること、言っていることをどう思うのか」という問いを立ててみます。

    さて、他者の考えていることを私たちはどうしたら知りうるのでしょうか?
    日常的には、他者に質問して教えてもらうコミュニケーションをしていますし、
    それが早道ですが、それをしない、できない状態で想定します。

    「他者」はこう考えているに違いない・・・と考えているときの「他者」は
    たいていは「同質的な他者」であり、他者と言っても自己の延長かと思います。
    公平な人であれば「認知された他者」のことを考えていると思います。

    それでは、想定できない「他者」、考えようもない、
    みえないものは存在しない、「他者」はどうか。

    哲学カフェを通じて、揺らいでいく中で
    インスピレーションのような創発的な
    みえないものが見えてくるようなことはありうるのだろうか?
    あって欲しい、そのような瞬間を体験したいと思い哲学カフェに参加しています。

  • #6

    yamagata (水曜日, 06 5月 2015 23:34)

    今回のテーマについて、「満足度の髙い哲学カフェ」「満足度の低い哲学カフェ」の違いを、どんな「哲学カフェにおける他者」がいたかからだろうとふりかえることで、よりよい哲学対話ができるための、他者(自己)とは、または他者をどう捉えているのかを考えるのもよいかなと思います。
    「他者」とは本来は人間に限定せず、「喫茶店」「公民館の部屋」とか非人間的なものでもよいと思いますが、人に注目してみました。

     下記に、具体的に私の経験と私の独自の価値観のバイアスがかかった「哲学カフェにおける他者」を列記してみました。

    ①私の話を(できれば)聴いてくれるだけの人②話をしているそばから、割り込んで発言する「俺が、俺が」の人③質問やコメントなどでフィードバックしてくれる人④発言せず関心があるのかないのか解らない人⑤スマホや携帯をいじって関心がよそにありそうな人
    ⑥つまらなさそうにしている人⑦役に立つ有益な話だけしてくれる人⑧自分のリア充話を延々と演説する人⑨私がまるでいないかのように相手にしてくれない人⑩挨拶をして積極的にお互いに紹介しあい知り合おうとする人⑪話を聴いた後に、全く無関係な論点の話しをする人⑫哲学することが楽しくて大好きな人⑬「ラ・ロシュフーコーを知ってますか?」「それって〇〇〇のことですか?」と哲学知識をひけらかす人⑭自分の想定外の感情、感想や価値観や経験や視点がある人⑮自分の知らない知識や情報を提供してくれる情報提供者⑯共通のテーマ・問いに答えようとする同志⑰哲学カフェで発言しにくい雰囲気になっていないか配慮している人⑱発言しても、自説や同じことばかり言っている人⑲論争が激しく熱くなると「哲学史を知らない。考えていない」とか非難する人⑳「近頃の若者は・・・」と若い人批判をして、自分の経験ではと説教する人㉑同じような意見を持ったばかりの人がいて反対意見がない㉒私とは意見が異なっている他者ばかりで完全アウェイ㉓男性/女性(※性的志向は多様ではありますが)高齢者/若者/ばかりの哲学カフェ
    ㉔テーマから脱線して自分の話ばかりする人㉔性/障がい者/民族差別/ヘイトスピーチなどの発言ばかりする人㉕「人それぞれだから」と話し合うこと自体無意味とまとめる人
    ㉖特定の人(自分)ばかり発言していないか配慮している人㉗「結局は〇〇に決まっている」「~に過ぎない」「話しあっても無駄」とか断言して他の人の意見を否定する人
    ㉘政治的話題になると右・左ほかレッテルを貼って決めつけそうな人㉙結局はお金かメリットがあるかで人は動くとか、損得利害ばかりで話す人㉚床屋政談のような、新聞やテレビや雑誌の受け売りの話しばかりする人㉛「議会政治は死んだ」とか「新自由主義政策の結果だ」とか、何か大げさな極論ばかり言う人㉜自分が「意識が高い」ことに疑いがなく、「意識が低い」世の中を啓蒙しようとする人㉝「人を殺したい」「女性に選挙権があるからおかしい」など、価値観が全く異なる人㉞特に発言はしないけれど、場を盛り上げたり明るい人㉟自分の深刻なプライベートなことを提供する人㊱哲学カフェで話されたプライベートな話しをブログに載せたり無断で写真を載せる人㊲哲学とは人生で成功を収めた人が持つ生活信条や信念を格言のように語ることであるから、若い人間や成功を収めていない人に語る資格がないという人㊳「身体と心から」とか「魂の深いところから」とか発した言葉でないとか、参加者の発言を浅い、深いと評価する人㊴私以外の参加者である他者が全員大学・大学院の哲学研究室の学生や院生・教員㊵名前も個人的なことも一切話さない匿名の人㊶哲学カフェや参加者を何か道具として利用しようとしている人㊷哲学カフェでの発言で、その後の仕事やプライベートな生活にマイナスの影響を与えそうな人
    ㊸哲学の知識もあるし、頭も私の方が良いぞと、他の参加者を睥睨する参加者

  • #7

    澤井 (日曜日, 10 5月 2015 23:40)

    今日はありがとうございました。

    個人的に今日一番興味が動いた場面で退席しなければならず残念でした。

    哲学カフェという場での他者(メンバーとその発言)の私にとっての特徴は、共感を目指さなくていいという点にあるような気がします。自分と他者との間にある性質や思考、感性などの違いを違いのまま放置できる、両者の間にある隔たりを近づけようとせずに隔たりの深さ、遠さを眺めじっくり味わえる稀少な場所で私にとっての哲学カフェはあるなぁと考えながら帰宅したら、そのために遠回りをしたかこ珈琲のコーヒー豆を買い忘れて家に着きました。

  • #8

    高橋 (木曜日, 14 5月 2015 18:19)

    少し日にちが経ちましたが
    なんとなく感じたことを書いてみたいと思いました。

    今回はどこか踏み込めないものを感じたのですが
    哲学とはなにか?
    哲学カフェとはどういう存在なのか?
    他者、自己、自我の定義とは?
    そんな前提条件があるようなのだけれど
    よく判らないので注意深く
    見えないものを踏まないように慎重に発言する

    そんな居心地の悪さを感じましたが
    「哲学とはなんだろう?」と手探りしている
    私にとってはその居心地の悪さが
    哲学を学んでいる人達にとって
    なにが大事にされていることなのかを
    垣間見せてくれるようで面白かったです