哲学カフェのつくりかた@名古屋(2014年9月21日)

~告知~

■ 9月21日(日) 哲学カフェのつくりかた@名古屋

哲学カフェがめざすものとは

~『哲学カフェのつくりかた』出版記念イベント ~

 

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 いまや全国各地で行われている哲学カフェですが、

主催者側は何を目指し、

参加者側は何を期待しているのでしょうか。

 

探Q(複数の視点で考えるカフェ)

という独自の構えで、市民との哲学対話を実践する菊地さんをゲストに招いて、

前半では主催者側の者たちによる対談を行い、後半では

参加者の方々をも交えたフリートークを行いながら、

これからのこの社会での哲学実践の

ありかたについて考えます。

 

もちろんいつもの哲学カフェのように聴いていただくだけもOKです。

本をお読みでない方や哲学カフェが初めての方にも

分かりやすく楽しんでいただける場にしたいと思っています。

気軽にご参加ください。

 

日時 : 2014年9月21日 (日)  13:15 - 15:45 (開場は13:00)

テーマ: 哲学カフェがめざすものとは?

場所:ホテル ル・ウエスト 中二階会議室(名古屋市中村区椿町6-27)

交通: 名古屋駅新幹線口より西へ徒歩2分

  (駐車場はございません。公共交通機関をご利用下さい。)

進行:  奥田太郎(南山大学)、

菊地建至 (探Q 複数の視点で考えるカフェ/関西大学他非常勤講師)、

三浦隆宏 (カフェフィロ/椙山女学園大学)

参加費:1000円 (1ドリンク込み)

定員: 16名  できるだけ事前の お申し込み をお願いしています。

申込/問合せ:当ホームページの申込みフォーム問合せフォームから。

主催: カフェフィロ

備考:本の購入を希望される方には、当日会場内で『哲学カフェのつくりかた』(大阪大学出版会)を2500円(税込)で販売します。

《お願い》

「哲学カフェがめざすものとは」というテーマについて、思うところおありの方。

当イベントに参加されない方でも結構です。

このホームページの専用コーナーの掲示板に書き込んで、ご意見をシェアしてくださいませんか?(匿名の書き込みも可能です。)

 

皆様のご意見をお待ちしております。

 

イベントポスター作りました。

ポスター
2014_9_21poster''''.pdf
PDFファイル 879.4 KB

~記録~

トークイベント前半 (菊地x三浦対談) の様子

~フォーラム~

 以下の掲示板は、次のようにご利用ください。

 

《イベント開催前》

「哲学カフェがめざすものとは」というテーマで思うところがおありの方。もしよろしければ、イベントに参加するかどうかに関わらずこちらにお書き込みくださいませんか。(当日、匿名で配布資料にさせて頂いたり、匿名で読み上げさせて頂くなどするかもしれません。予めご了承ください。)

 

《イベント開催後》

どのようなことでもかまいません。開催後、感想などありましたら、気楽にこちらにお書き込み下さい。

 

ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。匿名希望の方はここに「匿名」などと書いてくだされば結構です。

コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    安田 (日曜日, 14 9月 2014 16:42)

    以下は、実は二度目の投稿です。。。最初に投稿した第一稿と内容はほぼ変わりませんが、読みにくい、というご指摘をいただきまして、その点を改良した第二稿を書き、まだ二つ目の投稿がないことを幸いに、HP管理者の特権発動で、最初の投稿を削除して差し替えさせていただきました。。。役得をご容赦いただければ幸いです。

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    コメントと呼ぶには非常に長い文章となりましたが、私のおもうところを書いて見ました。名づけて、「哲学カフェがめざす二種類の〈人間形成〉とその矛盾について」というところでしょうか。

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    私はことばについてこんなふうに考えています。

    ①〈私たち〉、すなわち〈ことばを介して関わりあうことができるモノたち〉は、ことばを交し合うとき、ことばのやりとりという相互作用を通じて、そのやりとりに登場するモノやコトの〈何であるか〉を形成しあう。特に、〈私たち〉自身のお互いの〈何モノであるか〉を形成しあう。〈私たち〉もまた、一人称や二人称などの代名詞を通じてやりとりに登場するモノだからである。

    一方、私は、そうした〈私たち〉自身については、--- 正確にいうと、〈私たち〉自身について考えることについては、 --- こうも考えています。

    ②「〈私たち〉とは一体何モノであるか」と考えるとき、〈私たち〉の出す答は、最終的に次のいずれか一方の立場を必ず取る。
     ■〈私たち〉は、本質において、ひとりひとり独立し完結した 〈個〉である。
     ■〈私たち〉は、本質において、相互作用し(よって)相互依存する 〈現象〉である。

    補足ですが、二つめの立場の説明で「現象」ということばを採用したのは、他によきことばが見つからないゆえの苦肉の策です。このことばで表したい本質は相互依存性ですが、なぜこれが〈現象〉かというと、〈個〉としての〈私たち〉観 --- それはデカルトの〈私〉観やパスカルの〈人間〉観において結晶化されるものです --- の本質のひとつはその無時間性ないし超時間性だと思うからです。(だからこそ、〈個〉は時系列上の自己同一性が初めから前提された〈私たち〉観になっている。)これに対し、相互依存的な〈私たち〉観の本質のひとつはその有時間性にある、と考えています。そこを捉えての「現象」という命名です。

    さて、①と②をともに仮定するなら、そこから次の結論が導かれます。

    〈私たち〉がことばを交し合う所与の場面について振り返って考えるとき、〈私たち〉は、最終的には、その場面を『互いを〈個〉として形成しあっている場面である』とみなすか『互いを〈現象〉として形成しあっている場面である』とみなすか、どちらかである。


       ***

    ちょっとまた補足します。

    私の考えでは、①で示される言語観と〈現象〉としての〈私たち〉観は、実は、互いをいわばその理論的要請として前提しあっている関係にあります。以降、便宜上、両者を現象言語観、現象〈私たち〉観、とそれぞれ呼ばせていただきます。この両者の相互前提関係に気づくと、現象言語観に基づきながらも「〈私たち〉はことばを交し合うことを通じて互いを〈個〉として形成しあうこともありうる」と考える考え方は、実はある種アイロニカルな考え方であることがわかるかと思います。というのも、現代社会では〈個〉としての〈私たち〉観のほうが現象〈私たち〉観よりもはるかに一般的ですが、しかし、なぜそうであるのかを、現象言語観+現象〈私たち〉観の組み合わせは説明することができる、という考え方になるからです。具体的には、

    現代社会における言語生活では、互いを〈個〉として形成しあうようなことばの交わし方のほうが支配的であるために個の〈私たち〉観のほうが一般的になっているのである。

    という説明です。私はこの説明に与するものです。

       ***

    以前から感じていて、『哲学カフェのつくりかた』を読んでみてやはりそう思ったのですが、(少なくとも日本では)多くの哲学カフェ活動の実践者が、哲学カフェという活動のことを、単なる啓蒙活動ではなく広い意味での〈人間形成〉の活動と捉えているように思われます。社会形成とか共同体形成、また、癒しとか試練の克服というようなことなども含めての〈人間形成〉の活動です。今回の名古屋での『哲学カフェのつくりかた』出版記念イベントのテーマ「哲学カフェがめざすものとは?」も、多くの方はこの前提にもとづいて理解されたのではないかと思います。少なくとも、「哲学カフェは単なる啓蒙活動をめざすものではない」ということは、このテーマを読んだ瞬間にほとんど自動的に自明の前提になっていたのではないでしょうか。「哲学カフェは知識獲得をめざす場ではない」という考え方などは、まさにそういうことではないかと思います。

    ここでは、〈人間形成〉のなかで、とりわけ次の二種類の〈人間形成〉を、「哲学カフェがめざすもの」として取り上げたい思います。

    ■ 自分の頭で考え、判断し、行動する、そして互いにそのような存在としての相互尊重の責任を課し合い全うし合う、成熟した〈市民社会の構成メンバー〉の形成。
    ■ 無縁社会化が進む現代社会における、〈人と人とのつながり〉の快復。

    これらは、私自身が「この両方をめざしている」と自覚しているものです。

    尚、後者の表現には「形成」とか「人間形成」という言葉は含まれていませんが、意味としては、こちらをめざすこともまた、先の広い意味での〈人間形成〉をめざすことである、ということはご賛同いただけるかと思います。

       ***

    ちょっとまた補足します。

    哲学カフェを〈人間形成〉の活動と捉える、ということは、次のような理路によるものではないかと私には思われます。

    哲学カフェにおけることばのやりとりというものは、それ自体を通じて --- 鷲田清一氏のことばを半分お借りしてもう少し正確に言うと、そこでやりとりされることばの内容ではなく、その肌理とでもいうべきものを通じて --- 参加者たちの間に相互作用的な〈人間形成〉作用が生まれる、そのようなチャンネルである。

    そうだとすると、このような理路は、冒頭で述べた現象言語観+現象〈私たち〉観の組み合わせを前提にしていると言えます。逆に言うと、個の〈私たち〉観とそれとセットになったような無時間的な言語観 --- この文章ではこっちの言語観には一切ふれていませんが、表象言語観と呼んでよいような言語観です --- を前提にして哲学カフェ活動を実践する人々がもしいるならば、そうした人々には「哲学カフェ活動を〈人間形成〉の活動とみなす」という考え方は無縁だろう、ということです。

    じつは、先に「単なる啓蒙活動」ということばをさらりと使ってしまいましたが、これは、このような表象言語観+個の〈私たち〉観の無時間的な組み合わせの前提に基づく活動のことです。

    哲学カフェの実践を個の〈私たち〉観(とそれとセットになった表象言語観)を前提にして行うということと、哲学カフェでのことばのやりとり(の肌理)を通じて〈個〉の相互形成をめざすということは、まったく別のことである、ということにご注意ください。わたしの見るところ、(日本の)哲学カフェ活動実践者の多くは、後者には当てはまるかもしれないが、前者には当てはまらない。わたしはそう考えているのです。

       ***

    既に察しがついている方もおられるかもしれませんが、私は、上述の二つの〈私たち〉観 ---〈個〉と〈現象〉の〈私たち〉観 --- と二種類の〈人間形成〉---〈成熟した市民社会メンバーの形成〉と〈人と人のつながりの快復〉--- は対応している、と考えています。詳しく言うとこういうことです。

    哲学カフェを通じて〈成熟した市民社会メンバーの形成〉に寄与することをめざすためには、私たちは哲学カフェにおいて、大前提として、〈個〉としての互いの形成となるようなことばの交わし方に努めねばならない。〈人と人のつながりの快復〉に寄与することをめざすためには、同じく大前提として、〈現象〉としての互いの形成となるようなことばの交わし方に努めねばならない。

    一方、私は、〈個〉の相互自己形成をなすことばの交わし方と〈現象〉の相互自己形成をなすことばの交わし方は、本質的に相容れないものだと考えています。長くなるので詳しいことは省きますが、簡単に言うと、これら二種類のことばの交わし方は、背後で、それぞれ異なる、そして相容れない言語観+〈私たち〉観ペアを前提にするものだと考えるからです。

    もしこの二種類のことばの交わし方が相容れないとすると、最終的にこういうことになります。

    ひとつの同じ〈哲学カフェでのことばのやりとり〉を通じて〈成熟した市民社会メンバーの形成〉を目指すことと〈人と人のつながりの快復〉を目指すことは、両立できない。また、哲学カフェ活動全体を俯瞰してみても、この一方をめざす実践は、方法論的に必然的に、他方をめざす実践の効果を阻害する。

    しかし、私自身、哲学カフェを通じて、その両方を目指したい、と考えているのです。