2013/8/23: Nandeカフェ自由テーマ

Nandeカフェの第二回。自由テーマで話し合われました。

 

後から思ったこと、言い足りなかったこと、言い損ねたことなど、ありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

尚、ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

コメント: 4
  • #4

    安田 (水曜日, 04 9月 2013 16:45)

    安田です。

    山田さん。(ガーナ、、、とは、やはり私にはちょっと照れくさくて言えず、、、。すいません。)

    気持ちを伝えようとしていただき、ありがとうございます。
    何か重い過去があるんですね。前に向かって進もうとしても、それに「引き戻されて」しまう自分がいる。

    もしかして、それがために、気がつくと必要以上に力んで攻撃的に「主張」してしまう。そういうことではありませんか?そんなつもりはないのに、誰かを傷つけたいわけでは決してないのに、(なにかの意味で)自分自身が他者から傷つけられないよう、ぎりぎりのところで自分を守るために、力んでしまうのではありませんか。(完全に想像ですが。。。間違っていたら、すいません。)

    自分の存在を否定され、傷つけられてきた過去があるなら、「もうこれ以上傷つけられないように」と心が自己防衛を計るのは、これは考えて見れば当たり前のことです。たぶん、「人間」という言語的存在の、自然な現象です。傷が癒えるまでは、それはどうしようもないことです。でもそういう傷は、時間がたてば、ある程度までは自然に癒えるものだと思います。自分自身の狭い経験からしか言えませんが。。。

    願わくば、それまでの間でも、自分の気持ちを受け入れてくれる場所・自分が自分でいられる場所を探すだけではなく、自分のまわりで同じように心に傷を負う友達とか後輩がいないか、気をつけて見ていてあげたいですね。そして、もしいれば、その人の気持ちを受け入れて、そのひとが自分自身でいられる場所を、ほんの一時でも与えてあげることができれば、、、。いいですよね。その人の傷がちょっとでも癒えて、またその人が他の人のために、同じようにしてくれるよう祈りつつ。

    哲学対話というのはそういうことのための対話ではない、と私は思っていたのですが、うまく言えませんが、ぐるっと一周して、今は、哲学対話とはまさにそのための対話なのかもしれない、とさえ思い始めています。究極的には。(たぶん三浦さんの影響ですね。)

    またいつか、縁があったら、ぜひもう一度Nandeカフェを一緒にやりましょう。ガーナ/山田さん。(「何で敬語や敬称なんてあるの?」というテーマはどうですか?    ..... ジョークです。。。いや。。。これはえらく面白そうなテーマです。山田さんがいないうちにこっちでやってしまっても、勘弁して下さい。)

  • #3

    ガーナ(山田) (水曜日, 04 9月 2013 10:51)

    ごめんなさい、途中で投稿してしまいました。続きを、、、

    そのような、いわばトラウマに引っ張られる状態をまず何とかしたくて、8/23のNandaカフェが生まれたんだと思います。
    僕自身、引っ張られる人間なので、知の探求がしんどかったのもあります。

    どのように「とらわれ」を何とかするのかというと、安田さんも書いてくださったように、本当の気持ち・感情を話し、それを受け入れてもらうことだと思います。
    それは簡単な事ではないし、日常生活でそれが出来る場所は少ない。家族が本当の意味で家族でありにくい状況もありますし。
    その本当の感情を受け入れてもらえるかもしれないと思える場所を多分僕は創りたかった。
    言うなれば、善の探求が出来る前段階を一緒に越えていきたいという感じでしょうか。

  • #2

    ガーナ(山田) (水曜日, 04 9月 2013 10:15)

    安田さん

    企画者の山田です。
    僕が思う哲学は、「より良い」を追求し続ける営みです。どんなに小さな事でも問い、「より良い」の実現を常に目指していく。
    その点で、誰もが平等な知(僕にとっては善のがしっくりきます)の探求者であることには非常に納得できます。

    後から考えてみて分かったことなのですが、僕がこのNanda cafeを企画したのは、無条件で誰もが平等な知の探求者になれる訳ではないと僕自身感じていたからです。
    自分そのままを無邪気に表現出来ない状態になってしまっていては、知の探求はなかなか難しい。
    なぜなら、知を、善を追求しようとしても、トラウマ的な過去に引き戻されたり、ある物事へのとらわれによってそこへ全て戻っていってしまう場合があるからです。

  • #1

    安田 (金曜日, 30 8月 2013 12:14)

    当日、山田さんの右隣に座っていた安田です。

    この日のトークのことを後から振り返るにつけ、いろんな反省を持ちました。だいぶ時間が経ってしまいましたが、ちょっと書かせてください。

    そもそもNandeカフェは、若い人たちが心に抱え込む「何で?」という割りきれないおもいや疑問 (往々にして、大人・社会の常識に対する反語的なもの) を話し合う場として企画されたものです。(私個人の理解ですが。) こういう場においては、参加者たちが何かを話すこと以上に、話されたことを聞くこと、理解しようとすることが大事になります。普通はそう考えます。話されたことを、というより、話している人を、というべきかもしれません。言うなれば、ここで求められている「聞き」や「理解」は理知的なものではなく、強いて言うなら感性的なもの、、、、共感とまでは言わないものの、それに近いもの、、、、ということです。これは、こういう場に参加する「大人」にこそとりわけ求められていることです。少なくとも、参加する大人たちは、メインの参加者たちが思う「何で?」の思いの批判対象としての「大人」とか「社会」というもの(一方的で「聞く」耳を持たないもの)の、単なる体現者に陥らず、そのおもいをよく「聞く」ことが求められます。もちろん、理知的な「聞く」じゃない方です。ここでは、言語コミュニケーションに、伝達とか表現などの「言語本来の機能」以外、というか以上の機能が求められている、と、より抽象的・一般的に言い換えてもいいかもしれません。

    一方、哲学という言語行為は、あくまで、言語の伝達・表現機能を通じて成立する行為である、と、普通は思われています。たとえその「知的」な言語行為を通じて最終的に望まれている成果が、「知的」な (無時間的な) 「知識増加」ではなく、「成熟」とか「学び」とでも呼ぶような「全人的」な (有時間的な) 成果だとしても、です。(多分に西洋的な、とりわけ大陸ヨーロッパではなく英米哲学的な考え方かもしれませんが。)

    少なくとも、私は哲学や哲学対話という言語行為のことをこのように理解してきました。なので、振り返ってみれば、哲学カフェの一企画としてのNandeカフェというものには、もしかするとはじめから深い自己矛盾があったのかもしれない。。。。今回のトークのあとで、まず思ったのは、このことでした。

    しかし、私が今思う反省とは、この自己矛盾のことではなく、むしろ、この「自己矛盾」を私に「見つけ」させてしまう、このような狭く「西洋的」な哲学についての先入観です。

    「西洋的」な考え方からすれば、「世代間の哲学対話」というものはあり得ません。哲学する主体、つまり考える主体、ものを言う主体は、有する知識の寡多はあれど、誰も皆同じ、対等な、「知の探求者」だからです。哲学する主体のコミュニティには、世代差などそもそもないわけです。しかし、当の西洋哲学の歴史自体が、一方でこの考え方への根深いコミットメントを露呈しつつ他方でその厳しい批判を続けてきた歴史、と言ってもいいと思います。もしかすると、哲学カフェという運動自体が、連綿と続くこの「哲学の自己批判運動」の新たな形態なのかもしれません。

    私は、「聞く」ことや「聞いてもらう」ことが、聞く人や聞いてもらう人に対して持つ力・作用について、もっと真剣に考えて見たいと思いました。私には、この意味で「聞こう」とする態度が、真剣味が、やはりかけていました。

    なんだかまとまらない文章になりました。