2014/1/25: 「偉人」とは誰か?

伏見 カフェ・ティグレで開催された哲学カフェです。

 

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

尚、ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

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《ご案内》(ご参考まで)

「世界の偉人を挙げてください」と問われたら、誰の名を挙げますか?そしてそれはなぜですか?

 

誰からも名を挙げられる偉人もいれば、意見が分かれる偉人もいそうです。みなさんにもそれぞれ 「〇〇は偉人だと思う/そうは思わない」という人物がいませんか?でもこれ、本当に「偉人」観の相違なのでしょうか? たとえばそれは人物に対する知識の相違かもしれません。あるいは「偉人」についての見解の相違かもしれません。ではこれらの相違が解消されれば「〇〇は偉人か」の意見は一致する、でしょうか? でもこれらは、本当にそういう解消がありうる問題なのでしょうか?

 

 世界の偉人。偉人はなぜ「偉人」とされるのか、みなさんと考えてみたいと思います。  

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コメント: 1
  • #1

    山方 元 (月曜日, 27 1月 2014 07:20)

    一昨日の「偉人」とは誰か?について、約90分の時間集中して多くのことを意見交換できたと思いますが、時間切れのため言えなかった論点や視点について、いくつか出してみたいと思います。
    ※「偉人」の反対語は何か?話題の中では「凡人」という言葉を言われました。偉人が70点90点とプラスならば「凡人」は平均点前後というところでしょうか。それでは平均点以下あるいはマイナスは何と言ったらよいでしょうか?「愚人」とか?「反対語」がある言葉とは「相対的」なものだと思います。すなわち、老子的に言えば「平凡な人間愚かな人間ばかりなので、何か優れた人が「偉人」として持ち上げる」というに過ぎないのかもしれません。相対的な「偉人」を「絶対」視して神話にまですると「偉人」が誕生するのではないか。
    ※「偉人」というのは、「偉い」人のことと形容詞する「偉い」とは何かというように考えてみます。「 ~は偉い」という命題の述部になります。これは「短い」「長い」「重い」「軽い」「優しい」など、主観的な「私にとって」という言葉がつく「相対的な」ものでもありますが、それが私たちにとって「偉い」として世界から現れてくるためには、すなわち「卓越性」と言っても、人間にとって役に立つか、有益なものを「益虫」「害虫」と呼ぶようにな、人間中心主義的なものかもしれません。しかしリンゴの皮を誰よりも長く切る大会とか、スイカの種飛ばし大会のチャンピオンを「偉人」とは現在は言いませんが、プロ野球の長嶋茂雄に「国民栄誉賞」といった「偉人」にまで持ち上げることがあります。私は阪神タイガースファンというバイアスを差し引いても、長嶋さんは巨人ファンにとってカリスマであり人気のある選手かもしれませんが、何か選手として日本一という記録があるわけではありません。人が偉人となる瞬間というかラインとは何かなと思います。
    ※「偉人」と「偉い人」に微妙な違いがある気がします。「偉人」は何かに卓越性があるという点と「模範にすべき人」という道徳性とを併せ持った、今回の哲学カフェが想定した「偉人」に近いのでしょうけれど、「偉い人」は社会的地位、名誉といった「威信性」といった「財産」や「力」を感じます。また「偉い人」は使い方しだいでは嫌味や皮肉や風刺的な意味の使い方もあります。「お偉いさん」というと「空威張りする人」「社会的地位の高さから自分自身が価値がある尊敬されていると勘違いしている人」とかです。私たちが「偉い」とまなざすことには人や社会をプラスにする「正機能」もあれば「人を支配する力」として社会を動かす機能もあれば、人を尊大にして社会に差別を生んだりする「逆機能」など、「社会」のなかでの使われ方にも注意を払わないと、「 ~は偉い」という評価をして「顕彰」することが、人を傲慢にしてしまうことが多々あるのではないかと。「偉い人」が「偉ぶる」ことを私たちはあまり好まないナイーブなことは他にはないことかなと思います。話が拡散し過ぎました。
    ※「プルタークの偉人伝」や三皇五帝の五帝のような賢人とか大昔から、様々な偉人像があります。いろいろな偉人像を出し合い、共通性や相違点を見つけ出すという今回のテーマの提案者の方の狙いを生かした取り組みも面白かったのかもしれないと思いました。文化のちがいや時代の制約や、宗教や道徳や倫理あるいは善について生き方について何か新たな識見が得られそうな気がします。