2014/2/22: 藤子・F・不二雄 著 「ミノタウロスの皿」

漫画de哲学  第一回)

 

伏見 カフェ・ティグレで開催された哲学カフェです。

 

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

尚、ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

==========

《ご案内》 

ドラえもんの作者として著名な藤子・F・不二雄さんは、多数のSF(少し不思議な)作品をも書き残しています。今回取り上げる「ミノタウロスの皿」は、「ズン類」という牛に似た動物が「ウス」と呼ばれる人類に似た動物を家畜として支配するという、地球上での両者の関係が逆転した星の物語。主人公は呟きます。「言葉は通じるのに話が通じないという……これは奇妙な恐ろしさだった」と。今回はこの言葉を手掛かりに、価値観が異なる者どうしでどう話を通じ合わせたらよいのか、そもそも話を通じ合わせることなど可能なのかなどの点について、みなさんと考えてみたいと思います。最初にストーリーを簡単に紹介しますので、漫画は読んでいなくてもかまいません。

==========

 

 

 

コメント: 6
  • #6

    浜田 (火曜日, 25 2月 2014 10:45)

    わたしが信じている世界観のひとつに
    『死後も死んだ時の感情の状態が続く』
    というのがあります。
    悲しい寂しいで死んだら、悲しい寂しい世界
    悩み苦しみで死んだら、悩み苦しむ世界
    喜び感謝で死んだら、喜び感謝の世界
    わたし自身は、まだ喜び感謝で死ねる状態にいつも居られる訳でない所が課題です(笑)

    その観点で見ると、ミノアは完全に喜び感謝で死を捧げる。
    喜んで食べてもらえる、食べる側も喜んで食べる、喜んだ状態のミノアを創り出す事ができたズン類にも喜びがある
    イノックス星ではみんながハッピーな状態です。

    イノックス星に変化が起こるとすると、主人公の話を受け入れたウスたちが
    「食べられるのはおかしいんだって!」
    と反旗をひるがえした時、混乱、競争、弱肉強食、感情の乱れ等が起こるのでしょう。

    食べられるのがイヤなのか、死ぬのがイヤなのか。
    ひとはいつかは死ぬんですよね。



  • #5

    浜田 (火曜日, 25 2月 2014 10:18)

    地球には地球のルール
    イノックス星にはイノックス星のルール
    がある、ということを受け入れられる皆さんとの語り合いはとても気持ちがラクになります。

    まず『ルール』というものはそこにいる人、しかも支配する側…地球なら人間、イノックス星ならズン類が決めたことにすぎなくて、星間や宇宙全体の普遍的なものではない。

    地球においてもある国や地域では牛や豚を食べるが、ある国や地域では神聖なものであったり不浄なものであるとか、
    イノックス星ではズン類がウスを食べ、食べられる事は名誉な事だとかの、
    『ルール』『宗教上の教え』『社会的通念としての教育』など、支配する側が決めたこと。

    それを真っ向から「それはおかしい」と言ってもなかなか理解されないのはそのルールの中に同化しているからで、信じている人に違う価値観を示すことはとても骨の折れることです。

  • #4

    女子学生 (月曜日, 24 2月 2014 14:36)

    久々に哲学カフェに参加させていただき、改めてこの活動のおもしろさを実感しました。それと同時に、発言の難しさと言いますか、考えることの難しさも感じました。
    せっかく参加したのだから、なにか発言をすればよかったと後悔しています。

    カフェ解散後に自分なりに振り返り、考えてみました。
    動物を殺すことは残虐と言われるのに、なぜ魚や植物は殺しても残虐とは言われないのでしょうか。魚をさばくシーンはテレビで流れるのに、牛や豚などを解体するシーンはなぜないのでしょうか。
    魚や植物には表情がないから?。人間と似ていないから(牛や豚は動物であるため魚より人間に近いから。)、魚をさばくシーンは残虐と思わないからテレビで流れるのでしょうか。(私としては、魚をさばくシーンもあまり見たくないのですが・・・)

    人間がこの世界の最も強い生き物として君臨していることに違いはなく、そのため牛であろうと豚や魚や植物であろうと生きていくために必要なものを食べています。
    なぜ人間だけこんなにも進化してしまったのでしょう。
    弱肉強食だ、食物連鎖の流れがあるからと、他の生き物を食べ自然を壊し生きやすい世界を勝手に作っていっている人間は、今後なにをしていくのでしょうか。
    人間、動物、食べる、残虐、これらのことを考えているとこのような考えに行きついてしまいました。笑

    話しを変えまして、「ミノタウロスの皿」の主人公は恋をした少女を地球に連れて行きたいという、ある意味自分勝手な理由でズン類たちに自分の考えを伝えようとしたわけですが、これって実はとても度胸のある行動だなと思いました。
    地球ではない星にいるし、地球人としての待遇を受けているからかもしれませんが、それでも周りと違う行動を取ることや自分の考えをどんどん(知らない)人々に伝えるということは、今の若者が苦手なことではないかと感じました。私も苦手でした。
    そう考えると、主人公はイノックス星に来てから地球に帰るまでの間なにも(考え方などが)変わらなかった、自分勝手なやつだったとカフェの中で言われていましたが、自分がこうだ!と思ったらすぐに行動できる青年だったのかも?と思うと、主人公を少し擁護したくなりました。笑

    カフェの間はみなさんの話を聞いているだけで頭が必死で、なかなか自分で考えることができないのですが、あとで振り返るだけでもたくさんの疑問や感じることが出てきました。
    若い人の意見ももっと聞きたいと言っていただけたので、次回からはもう少し考えられるようにしたいと思います。

    楽しい対話の時間、ありがとうございました。
    次回もまた楽しみです!

  • #3

    多分「I」です。 (土曜日, 22 2月 2014)

    関係がありそうだけどどう関わっているのかうまく説明できなさそうで、カフェ中に言えなかったことを一つ書かせて下さい。

    小学生のころ海の近くに住んでいた祖母の前で開きの焼き魚を大きな身だけ摘んで小さな身を残してにいると「そんな食べ方では魚が成仏できないよ。食べられるところはすべて綺麗に食べてもらった方が魚は本望なのだよ。」と諭され、一緒に同じような食べ方をしていた従兄弟と「死んだ魚にとってはどんな食べ方をされようと変わらないよな。それよりも漁師に捕まらずに生きていた方がよっぽど本望だったろな。」などと話したことがあり、それ以来、食べられるものにとって食べられ方で変わることがあるのだろうかという疑問を持ち続けています。
    祖母の言葉は今では食べ物の大切さ、生き物の生命の大切さを仏教的なものの見方で諭すものだったと理解していますが、依然上記の疑問は残っています。

    今回改めてこの疑問を考えたときに、金子みすゞさんの詩が浮かびました。
    これらは食べられ方はともかく食べられること・捕まえられることに同情を寄せたものと思われます。
    ーーーーーーーーーーーー
    お魚
    海の魚はかわいそう。
    お米は人につくられる、牛は牧場で飼われてる、鯉もお池で麩をもらう。
    けれども海のお魚は/何にも世話にならないし/いたずら一つしないのに/こうして私に食べられる。
    ほんとに魚はかわいそう。
    【出典】「特選 小さな名詩集」
    ーーーーーーーーーーーー
    大漁
    朝やけ小やけだ/大漁だ/大ばいわしの/大漁だ。
    はまは祭の/ようだけど/海のなかでは/何万の/いわしのとむらい/するだろう。
    【出典】「金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと」
    ーーーーーーーーーーーー

    別の観点で浮かんだものとして、映画「宇宙戦争」(米、2005年)があり、この中でこれまで頂点捕食者であった人類が突如現れた火星人によって土地改良の肥料にされることのおぞましさが映し出されています。
    漫画「進撃の巨人」では肥料ではなく食べられるものとしてですが、これにも食べられるものとしてのおぞましさを感じます。

    これらを踏まえて考えますと、自分が食べられる側になったとき、食べられること(或いは殺戮されること)自体が問題なので、殺された後にどう食べられるかを考えることができないのです。(達観できていないからなのでしょうか?)

    今回のテーマである「ミノタウロスの皿」では食べられるミノアが食べられることに望んでいて、幸いにも(?)食べる側のズン類は食べることの罪悪感を感じずにいられたようですが、もしウスが食べられることを望んでいなかったらズン類はどうしていたのか。
    食べられることが栄誉なのだと説得していたのか、ウスを食べることを止めようとしたのか、あるいは・・・
    などと、いろいろなことを考えています。

    もしよければどなたかこの疑問におつきあいくだされば幸いです。

    それにしても安田さん。後光って・・・

  • #2

    安田 (土曜日, 22 2月 2014 17:23)

    先の投稿で少し間違えました。訂正させてください。
    「ソクラテスがいう『無知の知』の一つの姿」ではなく、「ソクラテスの『無知の知』が教える『無知』というものの一つの姿」ですね。失礼しました。。。

  • #1

    安田 (土曜日, 22 2月 2014 16:59)

    本日一番の私の発見は、次のことです: ある参加者が冒頭の自己紹介のとき指摘したように、この漫画の主人公は別世界の異なる「価値観」だか「倫理観」だかを終始かたくなに拒んでいて、(更に一番奥の奥田さんが指摘したように)最後のステーキを食べるシーンでこの「かたくな」さがついに1ミリも揺らぐことなく物語が終わっている。。。(別解釈もあるかもしれませんが。)だとすると、これは、単に「理解されない」話ではなく相互無理解の物語である、と。
    こう気がついて初めて、「彼等には相手の立場でものを考える能力が全く欠けている」等々の、主人公の落胆と非難の言葉が醸し出す独特のアイロニーというか自己矛盾にもようやく気がついた次第です。。。。
    「彼等は相手の立場でものを考えることができない」のような判断は、もし誰かがそういう判断を下したら、正にそのことで当の判断者自身が「相手の立場でものを考えることができない」でいることを露呈してしまう、そのような一種の自己矛盾ないし自己否定をはらむ不可思議な判断です。
    この物語は、主人公の「言葉は通じるのに話が通じない恐怖」を描くことを通じて、「『話が通じない』ということはどういうことか」をかなり冷やかに描いて、メタのレベルでの恐怖をこそ表現している。。。のか。などとも、後から振り返ってようやく思いつきました。
    途中でIさんが言われた(「この物語の中では誰も哲学していない。」)ように、この「理解していないことを理解していない」姿こそまさに「哲学する」ことの真逆の姿なのかもしれませんね。。。ソクラテスがいう「無知の知」の一つの姿、なのかも。どうりで今思えばあのときのIさんから後光が差していたような気がしたんです。(^^)
    とはいえ、今日は私自身がそういう「反哲学」の姿をさらしたのかもしれず。。。すいませんでした。それはそれとして、また楽しい対話でした。ありがとうございました。