2014/8/3: ありのままの自分とは

名古屋駅西 カフェぶーれ で開催の哲学カフェです。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

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《ご案内》(ご参考まで)

昨年11月下旬に全米で公開され、世界的にヒットしてきた『アナと雪の女王』。アニメ映画としては『トイストーリー3』を抜いて、歴代1位になったそうです。また、主題歌「Let it go ~ありのままで~」も大流行。曲名もそうですが、そのサビの部分で「ありのままの自分になるの」「ありのままの自分信じて」「ありのままの自分を好きになって」というように“ありのままの自分”が強調されています。多くの人々が「普段ありのままの自分で生きたいけど、できていない」と感じているなか、共感させられ、かつ背中を後押ししてくれるこの曲、この映画が大流行したのではないでしょうか。
そこで、今回は「ありのままの自分とは何か」について、みなさんと対話をしながら
考えてみたいと思います。

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コメント: 9
  • #9

    山方 (水曜日, 27 8月 2014 01:06)

    劇中歌(松たか子さん)を左に、エンド(May J.さん)を右に掲載し、
    二つの異同をMay J.さんの歌詞側に書きます。

    劇中(松たか子)           May J.


    降り始めた雪は 足跡消して
    真っ白な世界に ひとりのわたし
    風が心にささやくの
    このままじゃ ダメなんだと

    とまどい 傷つき
    誰にも 打ち明けずに 悩んでた
    それももう やめよう

    ありのままの 姿見せるのよ
    ありのままの 自分になるの
    何も怖くない 風よ吹け      わたしは自由よこれでいいの
    少しも寒くないわ

    悩んでたことが うそみたいね
    だってもう自由よ なんでもできる
    どこまでやれるか            まわりはこんなにも
    自分を試したいの            冷えてるのに
    そうよ変わるのよ わたし      ほっとしているの さびしくないわ

    ありのままで 空へ風に乗って      ありのままの姿見せるのよ
    ありのままで 飛び出してみるの     ありのままの自分になるの
    二度と 涙は流さないわ        わたしは自由よ
                       これでいいの 少しも寒くないわ

    冷たく大地を包み込み         ずっと ずっと 泣いていたけど
    高く舞い上がる 想い描いて      きっと きっと 幸せになれる
    花咲く氷の結晶のように        もっと輝くの
    輝いていたい もう決めたの

    これでいいの 自分を好きになって   ありのままの姿見せるのよ
    これでいいの 自分信じて       ありのままの自分になるの
    光あびながら 歩きだそう       わたしは自由よ これでいいの
    少しも寒くないわ           少しも寒くないわ

                       ありのままで いいの
    <<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<
    松たか子さん版は高揚感に満ち高々と歌い上げるのに対して、May J.さんは
    のびのびと歌っているようです。松たか子さん版が人気があるのも、日本でのアナ雪ブームが異例とされるのも、自分らしく生きられない日本の女性の気持ちにシンクロしているからかもしれないという指摘もあながち外れていないかもしれない。

  • #8

    山方 (火曜日, 12 8月 2014 00:18)

    少ししつこい気もするけれどWEB情報だと『アナと雪の女王』の日本語吹き替え版「Let It Go」松たか子さんの劇中版とMay J.さんの主題歌と(エンドソング)には、歌詞が異なっている部分があり、さらにMay J.さんによれば、「劇中のエルサは『ありのままの自分で生きていきたい』という"願望"がある。(劇中歌は)その決意を示す時に歌っています」と語り、「エンドの私が歌わせていただいている主題歌の方は、紆余曲折があったエルサが初めて自分の本当のありのままの姿を見つけた"幸せ"を歌っている」らしい。
    日本語版の歌詞を見比べたけれど、確かに違いはあるけれど、込められた意味は解らず。
    制作サイドはそのようだ。
    しかし、オーディエンスによって解釈が異なるのは当然で、そこを切り口に深く考えると良いかもしれない。

  • #7

    山方 (金曜日, 01 8月 2014 03:47)

    書き忘れていた。自ら不利益になることを解っていて
    カミングアウトをしているのを見て「おかしい」という疑問を持たれるのも理路ではある。
    しかし、不利益があるリスクがあっても、損でもコストが増えて負担があってもカミングアウトをするだけの理由がある、使命感がある、という解釈もある。
    私見ではカミングアウト運動は、アメリカの影響もあったが在日で言えば2世、部落解放運動で言えば、まだ差別が強かった時代だ。解放運動の主体を形成するためには不可欠であるとか、個人が変わることで社会が変わるとか、少なくとも社会を変える・変わるというグランドストーリーが信憑性が高かった時代でもあり、アイデンティティ形成が明確だったのかもしれない。
    まったくの私見だが、在日朝鮮人の運動で言えば2世から3世・4世と世代が進むにつれ、アイデンティティが多様化したり、部落解放運動や聴覚障害者も含めて言えば、社会がより良い方向に変化して、健聴者と一緒の生活をしていくなかでアイデンティティの多様化というか不明瞭化が進み、主体性が求められない、強く生きることが要請されなくなると、どこか運動の担い手の意識は昔からの人とはズレていく傾向があるように思う。
    「カミングアウトすればよい」という万人向けのマニュアルのようなものや指針がそのまま信じられにくくなるというより、個々別々具体的な事例のなかで生き難さの解決の仕方が違ってくるという意味では、グランドストーリーが終わり、小さな物語というか、その解決が妥当性があるのかどうか、手探りで行っているということはあるかもしれない。

    アナだけがヒロインの設定だったらしい、この映画。検証が必要ですので鵜呑みにしないで。ただ、途中からエルサも悪役から敵役からダブル・ヒロインとして格上げになったとも言われる。このあたりは検証必要です。

    エルサまで主役になったのは何故だろうか。

    いずれにせよ、小説や映画も制作者の意図を離れてテキストになれば、
    読み解く側、読者側が、その意図を離れて
    読者が自分の体験や経験や知識や価値観を投影して
    自分自身を語りだす。
    小説や映画もそれらの解釈を取り入れながら意味を膨らませていく。

    現在映画を見ながら、映画はオーディエンスと制作者とで「共同製作」と言えなくもない。哲学カフェも同じことかもしれない。
    解釈がいろいろ出ていい。
    対象について語っているというより、対象について語りながら
    対象に自己を投影して語るのが心理学的には言えるときもある。
    対象について語りながら、自己を語り、自分が現れるているのかもしれない。
    今から、南三陸へボランティバスで行きます。もう家を出ます。東さん。いろいろ考える機会をありがとう。

  • #6

    山方 (金曜日, 01 8月 2014 00:38)

    折角だから アナと雪の女王について、今、ササッとネットで調べてみた。アナと雪の女王のテーマに同性愛者のカミングアウトを見て取る人が多いというか珍しくないようだ。むしろ通常か。レズビアンとか女性中心主義とか男性差別とかの評価もあるらしいが、そこは気づかなかった。

    ダブル・ヒロインの一人エルサはカミングアウトをしたわけではない。ゆえに問題はカミングアウトではない。ではなぜカミングアウトを想起させるのか、どこが共通点があるのだろうかか。私見では、「引け目」と「隠し事をしていること」「悪いことであること」といった負荷から抜けて、自己卑下・卑小感からの解放、自らが力づけられている(エンパワメントされている)かのような高揚感であろうか。しかし一時的な高揚感にしか過ぎない。
    仮面をつけた自己がいるとする。いい女王普通の女王を演じているエルサがいる。「本当の自分」は違うと思い苦痛である。
    仮面を脱いだ、他の人からは異質だが「ありのままの自分A」がいて、これが本当の自分だと開きなおれる。
    これで映画のストーリーが終わりではない。
    本筋ではないので、少し飛んだ補助線かもしれないけれど、意識している自分と無意識の自分とどちらがが「ありのままの自分」とか「本当の自分」と言えるだろうか。「礼儀正しい自分」と「羽目を外したい自分」と。
    どちらも本当の自分とするならば、これらを統合した自分が、礼儀正しくもあり、礼儀正しくもない自分であり、両方を自覚してコントロールしていくのが熟成した大人の自分という考え方がある。
    let it go の歌は隠していた自分を表に出すけどなにか?ということのようだが、他人との関係を作ることに対して臆病になり自分をコントロールできない状態からは脱していない。
    自分を自分自身で受け入れるときには「ユーモア」のセンスがよく言われるが、この映画ではユーモアではないようだ。
    鶏が先が卵が先かのようだが、映画の場合、エルサはアナに無条件に信頼され愛され自己犠牲までされて、安定した成熟した自分への成長を促した。
    劇中歌は、華やかなヤマではあったけれど、統合された「ありのままの自分B」への過渡期ということではなかろうか。

  • #5

    山方 (木曜日, 31 7月 2014 23:12)

    東さんが、カミングアウトのことに触れているので、今度のカフェのテーマ「ありのままの自分とは」よりは、私への投稿への応答のようですから、応答いたします。翻訳については意見がいろいろありますが、そもそも「アナと雪の女王」(邦題)はオリジナル原題は「Frozen]ですが、かなり違いますね。英語の原題から内容は類推できない。このタイトルでは行列ができなかったでしょう。
    let it go の歌には「引きこもり説」もあるようですが、彼女が全く隠していた時からは、いったん自暴自棄に解放されて、映画の最後は「解凍」されるというオチなのではないですか。氷の城を作るところがエンディングではありません。「見せなくても良い」ということは解答ではないのではないですか。城のなかの孤高の生活や人との関係を絶つとか、城に閉じこもることを美化しているようにはみえません。何不自由がないように見える女王の生活のなかの不自由、人とのつながりが切れたけれど人目も気にしなくてよくなった城の中の生活、どちらもよろしくない。ではどうするか、哲学対話のような弁証法的に進んだのが映画ではないでしょうか。ダイバーシティな社会を理想とするアメリカなのですから、人種やエスニックごとのコミュニティ形成をすすめることをディズニーが作るとも思えません。
    ただ、東さんの解釈じたい面白いとは思います。世代や時代が変われば受け止め方は違うものですから。
    今回のカフェについては、「ありのままの~」という誤訳か名訳やその意訳された言葉だからこそ、テーマに挙げられたのではないですか。
    シネマ哲学カフェにならなくてもよいかと思います。面白いテーマなのだから、英語のlet it goにこだわらず「ありのままの自分」について考察して対話する意味があるというか面白いと思います。
    いずれにせよ、今回のテーマは「ありのままの自分」なので当日はそちらへ集中してください。
    さて、本題です。カミングアウトについてですが、私は「さながらホモセクシャルや性同一性困難な人がカミングアウトをして、自分らしく生きることとよく似ていますね。」とだけ書いているので、「カミングアウトすべき」とか「カミングアウトしないと自分を愛せない」とか書いておりません。
    東さんの解釈ですね。相手がそのように解釈しているなら、自分はこう反論をするという形ですが、私はそのようなことを書いていないだけでもなく思ってもいませんので、空振りです。どなたかがどこかに書いていたのでしょうか。そうであれば、私のこの応答も空振りですが。
    私は大阪出身ですので、部落出身者のカミングアウト、在日朝鮮人のカミングアウト運動をほぼ同時代に体験はしています。教員になるのであれば、「本名を呼び名告る運動」とどう向き合うかは真剣なテーマであり、キツいなと思います。名告るのは本人ですから。
    私が、カミングアウトした後とよく似ていると思ったのは、愛知県の公立高校出身の在日朝鮮人の同学年の方と大阪で知り合った時に、彼は愛知県では通名(日本名)を名告っていたけれど、しがらみのない大阪に来たときを契機に本名を名告って、隠していたことから解放されたのを見ていたからです。本名を隠しておけるようにしてあげる社会が思いやりのある優しい社会とは、爪の垢ほども思いません。どの名前を使うか、いつ、誰に、どのタイミングで話すかは当事者本人の「自由」です。しかし「自由」の意味が東さんとは違うと思います。「自由」な選択ができにくい社会状況を変えることが大切であると思います。思いやりや同情している方が抑圧者であればひどい話だと思います。部落出身者や在日朝鮮人のカミングアウト運動も、そのような微温的というか隠していること、隠させてあげることが間違っているということを、社会を告発したいという動機ではあったろうと思います。

    それから「承認されなくてもよい」という意味でもないと思います。
    仏教的議論のようですが。「私は気にしない」と「承認されなくてもよい」とにはズレがあると思います。正確には「承認されても、承認されなくてもよい」の、周りの評価には振り回されない という意味で反抗ではないでしょうか。反抗は拘りではないかと思います。反抗さえしないというか。

    社会的弱者・少数者の方たちが多く参加されていた哲学カフェに参加したことがあります。おやっと思いましたが、すべての方が自己紹介でカミングアウトされていました。当然そのことも議論になり、「カミングアウト」といっても、張られたレッテルというかラベルは必要な人に、必要な時だけ伝えればいいのであって、わざわざカミングアウトしなくてはいいのでは、という意見もありました。他者から名付けられた、規定されたことを受け入れたり、内面化する必要などありません。今回の「ありのままの自分」とも重なりますが、「ありのままの自分」という物語(ナラティブ)を誰か他者の都合で作られて自己理解として自己像を受け入れるなんておかしな話です。社会的に不利になる場面で隠すという選択は戦略で当然というのが私の考えです。私もそのような選択をして生きています。しかし東さんとは理由が違うと思います。視点が違うというか。
    自分にとって「不利」ということそのものがなくなれば、もっといいのにといつも思います。
    いずれも私の解釈ですので、悪しからず。

  • #4

    (月曜日, 28 7月 2014 16:09)

    Let it goの原曲の歌詞が気に入り映画を観に行ったクチです。問題提起と関係するので映画と関連付けて少々長めに書きます。

    映画鑑賞前は、「ありのままの~って誤訳とまではいわないけどニュアンス違わないか(音響的な工夫はえらいが)」と思っていました。というのも、“let it go”は直訳的に意味を解すると、自分の内面について言っているフレーズではなくて、外界からの“be the good girl!"などの声に対して「勝手に言ってろ!もう知らん!」と柄にもなく反抗しているフレーズだからです。前後の「誰にも打ち明けずに悩んでいた それももうやめよう」や「ありのままの自分【見せる】」「自分を好きになる」なども、氷の城に一人閉じこもる旨の歌としては少し変な気がしました。このようにもやっとした気分を抱えて映画をみました。物語では姉の力が城下の人々に承認されハッピーエンド。そのあとのエンドロールでLet it goが流れたことで得心が行きました。Let it goの歌詞は、どうやら、「承認されなくともよい!」という反抗とも、「肩の力を抜いてありのままでいこう」という元気づけの意味にも解釈できる、ダブルミーニングな歌詞だったのです。邦語歌詞は後者を採用し、エンドロールにぴったりはまっていたと思います。

    で、物語から離れて考えると、「ありのままの自分になること、見せること」は、例えばLGBTの人にとって、やはり風当りが強い生き方になる気がします(昨今状況が改善しているものの)。不可抗力で知られてしまったwell, now they knowのならば腹をくくるしかありませんが、わざわざ強風や寒さに体を晒す必要はないと思います。カミングアウトは人や時を選んで慎重になるべきでしょう。

    そもそも、「(他人の前で)ありのままの自分になること、見せること」は「ありのままの自分を好きになること」に必要なのでしょうか。負担なく・上手に自分を隠せるようになることのほうが重要ではないでしょうか。
    有名な氷の城を築く映像では「見せる必要はない」という解答を出していると思われます。あの映像が感動的なのはこの「潔さ」を美しく映像化しているからではないでしょうか。

    ……というような問題を一人カラオケでLet it goを歌いながら思いつきました。「ありのままの自分とは」と合わせて考えてみたい問題です。

  • #3

    山方 (火曜日, 22 7月 2014 00:05)

    途中で切れてしまいました。「ありのままの自分」はその他論点が幾つもありそうですね。ご報告を楽しみにしております。

  • #2

    山方 (火曜日, 22 7月 2014 00:00)

    定員に達したようですね。8月3日のカフェは興味のあるテーマでしたが、タイミングが悪くて残念です。先ほど「アナと雪の女王」をDVDで観たところです。「あるがまま」のアナ雪的な意味は、異能者(=その社会で異質なものとして排除される可能性があるマイノリティ)が自らの本性を隠していた生き方から隠さない生き方をする、さながらホモセクシャルや性同一性困難な人がカミングアウトをして、自分らしく生きることとよく似ていますね。「あるがまま」とは何か、そもそも「自分」あるいは「あるがままの自分」などを知ることは出来るのか、知ることができるのはどのような条件の時か、

  • #1

    山方 (金曜日, 18 7月 2014 20:55)

    参加できるか解らないですが、このテーマは面白いですね。ありのままの自分とは何でしょうか?外見、癖、習慣といった、存在といった「現在の自分」でしょうか。「飾った自分、化粧した自分、他人を意識して期待されているようえんじている自分、就活や仕事でセルフプロデュースしている虚構の自分」ではないところの自分でしょうか。「本当の自分は何か」と自分が自己実現出来ている、自分の本性などがある「本来の自己」でしょうか。ただ存在しているだけで、承認されるべき至上のものとしての「個性」というものでしょうか?産まれた時からある不変なもの、経験で成長変化していても、自分が自分であると自己意識を持続させている自分らしさ、アイデンティティとかよばれるものか?
    アナ雪の映画はまだ観たことがないけれど、「ありのままの〜」というディズニーの歌を聴くと、何故か自己啓発セミナー、セラピー、心理学カルトを連想します。ここ30年近く耳にタコができるくらい聞いてきた「ありのままの私・自分」。その功罪を考えてみたいですね。
    閑話休題。1980年「あのねのね」が「みかんな心ぼし」というコミックソングを歌ったのだけど「ありのままに生きようとした蟻は、蟻のままだった」という歌詞がある。ダジャレというより、「ありのままに生きよう」と深刻に考えていることで、迷惑な周囲からの皮肉な揶揄ね気がしてました。長文失礼。