■ 日 時: 2015年6月20日(土) 10:00~11:30
場 所: カフェティグレ伏見店
(名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)
地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分
テーマ: 「観光する」とは?
進 行: 井下賢一
参加費: 飲食代実費(390円~)
定 員: 15名
申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)
問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)
備考:
① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)
② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。
《ご案内》
経済成長分野に位置づけられている観光産業。ビッグデータの解析によると思ってもいなかった観光客は訪れているようです。観光とは何をしてもらうことでしょうか? また逆に私たちが観光するときは何をしているのでしょうか? 今回は「観光する」ことについて、みなさまとともに考えていきたいと思います。
初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。
《お願い》
報告です。本日(6/20土)哲学カフェ「『観光する』とは?」を開催しました。参加者15人で観光する側/させる側/観光客をもてなす側等、様々な立場での体験談をベースに「観光する」「観光させる」意味についてともに考えていきました。
— 哲学カフェ@名古屋 (@cafephilo758) 2015, 6月 20
@cafephilo758 観光コースに乗せられるなど、観光には否定的な印象があることを確認する一方で、自分の住んでいるところでも観光ができること、観光地に行くことでその場所に対するイメージを作り観光体験を共有させることができるという肯定的な面があることも確かめられました。
— 哲学カフェ@名古屋 (@cafephilo758) 2015, 6月 20
@cafephilo758 中でも、外国から来られた友人の家族をはとバス観光に連れて行ったときに自分も観光者の見方に変わり、見慣れた風景が観光するに値するもの見えるようになったというエピソードは、特に印象に残りました。 皆さんとともに深く考えられたことを嬉しく思います!
— 哲学カフェ@名古屋 (@cafephilo758) 2015, 6月 20
以下の掲示板は次のようにご利用ください。
《開催前》
よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
《開催後》
カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。
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高橋 (火曜日, 09 6月 2015 22:07)
観光するとは・・・
そもそも観光とはなんぞや?
「観光ホテル」あたりと相性が良さそうなので
「ホテル」と同じ時代に作られた造語なのだろうか?
それとも「観音」と同じ位ルーツが古いのか?
見聞、物見遊山、旅などよりは新しい言葉の気がする
「sightseeing」の訳語なのか?
漢字の意味を見ても「光」を「観」る
「音」が見えたらいろいろと世界観が変わりそうですが
なぜ「光」なのか?
どうも言葉の方は手がかりがなさそうなのですが
「観光」の意味するものもとりとめがないようです
「旅行」とは共通点が多そうですが・・・
「観光旅行」とつなげて使える以上別物のはず
散策ともどこか違いそうな気がする
かんたんそうに見えたのに
捉えどころがない存在なのでしょうか
高橋 (木曜日, 11 6月 2015 17:31)
観光の「観」
観=見 or 観≠見
漠然と「観」は仏教と関連がある言葉で
細かく?それともしっかりと見る?こと
「見」は普通に眺める?こと
仮説
見物 < 観光 < 目的
遊びに行きたい
なにかもう少し出掛けることに大義名分が欲しい
たいした目的がある訳でもないので
それっぽい言葉が欲しかった
「観」と「光」が付くとなんとなく「お参り」に
感じが似ている
「伊勢参り」は表立って行くことの反対が難しい
(現代の話ではないので要時代考証)
そこで作られた明治時代の新語が「観光」では?
はたまた
遡って?中国語まで戻れば「~しつくす」
吃光で食べつくすなら
観光は観つくす
なにやらバスツアーの分刻みのスケジュールが
目に浮かぶ気がします
BABYMETAL (金曜日, 12 6月 2015 06:28)
昔「観光」について調べたことがあるのです。修学旅行がらみで。知識なしが哲学カフェの醍醐味なのですが、知識の多寡ではなく考えることに重点がいくように書いてみます。
観光とは、「光を観る」行為です。「光」とはその訪問地の素晴らしいところ、良いところという意味です。「光」を観るのは、感動をすることもあるでしょうし、何かを学ぶためかもしれません。
論点の一つに「光」とは何かというのがあるかもしれません。
光の一つは「名所旧跡」があります。
旧跡とは「歴史的な謂われのある土地、建物」などですが、「名所」とは何でしょうか?
光ともされる名所ですから、元来は「卓越したもの」として、美しい風景、歴史的事件があった場所、有名な人と関係がある場所。
さて、ここで問いです。
(1)光(観光されるもの)とは何か
(2)誰が「光」(名所、観るべきモノ)と決めるのか
(3)なぜ光を観たい、観光したいという欲望があるのか?
(4)なぜ光を見せたい、観光をさせたいという欲望があるのか?
(5)光を人に見せる、観光現象を起こすときに目的はあるのか?
(6)光(名所の意味)はいつまでも輝き続ける価値があるのか?
観光について考えるときに避けて通れないのは、政治・経済・価値との問題があると思います。
観光はお金になり、まちおこし・むらおこしになり、団体行動を強化し、
過疎地域にとっては、自分たちの町の埋もれた「光」あるいは気づかなかった光を発見し地元に誇りと愛着を持って街おこしへ「参加動員」させる政治技術と化し、その光をもとに観光客を呼び込もうとする「観光まちおこし」であり「まちおこし観光」がコミュニティビジネスの定石となりつつあります。観光は第3次産業ですが、第2次産業と異なり初期投資が少なくて良く、もし日本の地域がグローバル競争から衰退していく対策として、中国やアジアから観光客を呼び込む「ビジットジャパン」政策、「クールジャパン」キャンペーンから日本へ観光客を呼び込むために躍起となっています。
(7)観光したいという需要、ニーズを無理矢理起こされていないか?
(8)観光行動ともいうべき、観光のスタイルは誰がどのようにして普及させたのか?
(9)イミテーションの光、紛い物のような光もないか?
(10)そもそも政治や経済と無縁の自然光はあるのか?
(11)世界文化遺産、世界自然遺産は光なのか?
(12)B級グルメや、映画のロケ地、アニメに出てくる場所などの「聖地巡り」は
従来の観光の「光もの」と違い、「非日常」ではない「日常」まで観光していますが、
その質的な違いは何かあるのか?
(13)インターネットの普及で、観光旅行をしなくてもネット上で疑似観光ができるようになった。観光行動について、ネットユーザーにはどのような変化が起きているのか?
ネットサーフィンであるとか、あらたな観光に関する現象や行動やビジネスを起こしていると思われる事例はあるか?
(14)観光に非日常的な刺激を求める場合、中毒症状のようなことを引き起こさないか?観光といった「非日常」の「日常化」すなわち「旅番組」のテレビ放送、プチ観光情報の流布、国内旅行、海外旅行の活発化、外国人の方の来日観光客数の増加、エスニック料理店の増加など、異文化接触のチャネルはいくらでもあるようになった。日常は「観光化」していないか?
雑駁な思いつきを羅列しました。もう少し広く深く考えたり、多様な観光に関する経験からも、何か観光を通して哲学対話をするというのもよいですね。
高橋 (金曜日, 12 6月 2015 23:34)
「光」は風光明媚の光なのでしょうか?
私の知識の範囲ではこの言葉もまたイメージ程度しかなく
我ながら情けなく感じます
「光」を論点にするのは面白そうです!
こちらは「観」に囚われています
「観」と「見」の違い
思ってもみなかった場所に観光に来る人がいる
住民からすれば日常の風景が観光資源になる
「光」が素晴らしいものなので見学に来るのか?
上面を眺める「見」ではなく様々な視点からより深く追及する
「観」に見方を変えることで「日常の風景」が観光資源になる
見方を変えれば当たり前のことが新しい価値観を帯びてくる
「観」の側の視点が変われば「光」の側の価値が変わる
その視点は日常生活をおくる住民の視点ではなく外からの視点
外からの視点で初めて日常の風景が「光」と認識される?
もうひとつ気になっているのは
なぜ「観光」にしなければならないのか?
ぶらぶらと散策するということを言語化する必要があるのか?
もし理由が必要ならば
それが「観光する」という言葉の一端なのではなかろうかと考えています。
BABYMETAL (日曜日, 14 6月 2015 05:22)
テーマ「観光する」を「観光」+「する」の造語とすると、観光を自覚的に演じ、自分の行動を反省しモニタリングして調整している行為と解釈してみます。
そのとき何を参照しているのだろうか?
古代の観光は、支配者・貴族階級の視点で「光」が設定されたと思います。
近現代でも、山を「日本アルプス」を日本の美に格上げしたのも、政治や社会の要請もあったと思います。
近現代には団体旅行やパックツアーなど手配旅行で安くなり観光は、画一化し大衆消費のレクリエーションになったと思いますし、国民意識の形成にも役立ったと思います。ここまでは、共通の高級文化的な「光」を観ていた観光ではなかったかなと。
ディスカバージャパンのキャンペーンやアンノン族がアンノンに掲載された記事をなぞる旅行くらいから、「光」はいままで光を放っていなかったものに、光をあてて輝かすものになった。
さらにインターネット時代になり、自分で安い交通機関やホテルを手配できたり、個人で個人の興味関心で旅行を自由に設計できるようになり観光に主体性を強めたことと、特にブログなどで発信出来ることによって、「光」が個人が決める、皆が決める民主化が起きたと私は思います。
「見る、食べる、遊ぶ」=「るるぶ」対象を決める批評家も残存しているものの、食べログやクチコミで、ショボイ店が、場所がオーラを放ち、普通の主婦がカリスマになる。観光地があり見に行くのではなくて、新たな未開拓な「光」や観光地をつくりあげ、つくりあげた観光地に行くことで、観光地が新たにつくられる。
観光ガイドブックやスマホで、人気のある場所へ行き、グルメを食べる、旅行記を書く、「○○○なう」と日常行動が観光になり、
リア充なフェイスブックの書き込みをどれだけ閲覧されたか、自ら観光地「光」になりさえする。
「観光する」構え、これがビルトインされてしまった時代ではないか。
未熟な思いを言葉にしているので彫琢不足です。
個人が「観たいもの」が「光」になる。光を当てるから光になる。
しかし、ある人にとっては反射した「光」でも、他の人には反射光さえ目に入らない。
世界は同じようには見えないし、存在していない。
絶対的な体験や足場を失った現代日本における観光とは何かなと思います。
高橋 (日曜日, 14 6月 2015 17:52)
観光は目的ではないのでは?
ディズニーランドに観光に行くとは言わない
ユニバーサルスタジオに行くついでに道頓堀で食べ歩きをする
こちらはどうなんでしょうか?
更に目的地の存在が小さく?なると
犬山城に行くついでに城下町で食べ歩きをする
お城ファンの以外はお城がついでで長良川の眺めを見たり
食べ歩いたりするのが目的になるでは?
ここでランドマークの犬山城の存在が無かったとすると
目的地を失ってしまう
仕方がないので犬山観光としていたのが過去で
今は犬山に食べ歩きに行ってくると変わってきたのでは?
もしそうであるならば
観光の類語として
食べ歩き、ウインドウ・ショッピング、週末に家族でイオンに行く
などがあると考えらるのでしょうか?
BABYMETAL (日曜日, 14 6月 2015 21:47)
長文書いたら誤操作で消えた。超大作でしたが、疲れました。
短く書きます。
観光(旅行)の類義語や境界線になっている言葉をあげてみます。
①研修旅行②修学旅行③出張④家族旅行⑤社員旅行⑤スタディツアー⑥ワークキャンプ⑦物見遊山⑧町歩き⑨デート10.巡礼11.食べ歩き12.新婚旅行13.トレッキング14.被災地観光15.原発ダークサイド見学ツアー15.ホームステイ16.留学17.見学18.登山19.パックツアー20.キャンプ21.ショッピング22.グリーンツーリズム23.農家宿泊24.視察25.温泉入浴26.陶芸体験27.美術館訪問28.動物園27.遊園地28.サイクリング29.路上観察30.テレビ視聴「世界ふれあい町歩き」31.ネットサーフィン32.スポーツ観戦33.舞台芸術鑑賞
オーソドックスな問いです。
①観光は良いか、悪いか。良い観光、悪い観光があるか。
②なぜ観光をするのか?
③観光の反対概念は何か?
④観光される観光地側から見て、観光はどう見えるか?
⑤観光は生きる上で必要か?優先度はどのくらいか?
⑥観光は贅沢品か?お金と時間があるシルバーや独身女性がメインか?
⑦観光は遊びか?
⑧観光は学ぶことか?
⑨観光は欲求か?
10.観光に関わる人、ステークホルダーは誰か? 旅行者、旅行会社、運送会社、旅館、お土産屋、飲食店、出版、行政その他何があるか?「観光する」は労働や生業や限界集落や農村や伝統文化の維持、持続可能な社会のためにあるものか?
11.障がい者を宿泊拒否した事例があったか?女性、高齢者、障がい者その他のマイノリティからみて観光はどうであったのか?
12.旅の恥はかき捨て、は本当か?
13.観光することのメリットは何か?デメリットはなにか?
14.観光ガイドブック、地球の歩き方などを読んでからの観光やマニュアルに書かれている名所を確認してまわる旅行が観光か?行き当たりばったりの旅は観光になるのか?
BABYMETAL (木曜日, 18 6月 2015 05:49)
観光に良いも悪いもないではないかと考えてみました。
観光というと「野次馬」精神があると思います。
阪神大震災のときに、神戸の町を歩いていて気になったのが、中高年カップルから若いカップルたちの行動でした。焼け跡でニコニコ笑いながら記念写真を撮影していました。
崩れた家や焼け跡になったのを、「こんな写真撮っていいのかしら」とエクスキューズをいいながら。私はおかげさまで写真を撮るのを断念しました。
東日本大震災でも、大きなものが漂着したところへはボランティアどころか野次馬が集まったものです。他人の不幸でも観光してしまう、悲しいけれどそういう気持はあります。
過去の話しですが、大阪で勧業博物館を開かれたとき、琉球館とかアイヌ館とかがあって
沖縄の方とか、アイヌの方を動物園の動物のように「展示」していました。
いわゆる「オリエンタリズム」というものは、ヨーロッパ先進国が、オリエント(東洋)w異質なもの変なものとして珍しがる気持であり、他民族の文化像の奇妙な戯画化した、当然ヨーロッパが文明で東洋が野蛮といったステレオタイプを決めつけて固定化してきたもの思っていましたが、日本国内においても少数民族に対して行ってきたことでした。
観光に行けば、非日常を体験しようとします。観光地は日日常でなければ困ります。
非日常というのが、正常でノーマルなものではないと置換されたときに
自分たちの文化が中心といった「エスノセントリズム(自民族中心主義)」に陥ると
海外へ行けば、途上国の人が野蛮で大らかで奇妙な風習をしているのをみて
自文化の優秀さを確認して、自分の先入観や偏見を確認して喜んでいることはないかと思うときがあります。日本の団体パック旅行に参加して、他の方と食事をしていると、
どれだけ日本が素晴らしいかとか、イタリアへ行ったときでさえ自画自賛話になったので驚いたことがあります。
この場合観光といっても「光」は優れたものという意味ではなく
怪しい光、奇妙なもの、劣ったとみなしたもの も含まれるのではないかと思います。
差別や支配ー服従といった関係がそこにあります。
日本でも田舎と都市といったものがあります。都市の人が田舎を観光するというとき
いったい何を見にいこうとしているのかと思うときがないわけではありません。