メタ哲学カフェ 第十回

哲学カフェにおける常識とは?

(2015年6月28日)


~告知~

カフェぶーれ
カフェぶーれ

■ 日 時 :  2015年6月28日(日)11:15 - 13:15

場 所: 名古屋駅西 カフェぶーれ

     (名古屋市中村区椿町6-27 ホテル ル・ウエスト1階)

     名古屋駅新幹線口から西へ徒歩2分

テーマ: 哲学カフェにおける常識とは?

進 行: 高橋秀和/三浦隆宏

参加費: 飲食代実費(300円~)

定 員: 12名

申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)

問合せ/申込み先: staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 開催場所(カフェぶーれ)はAM11:00開店です。それまでCLOSEDの札が出ていますがお休みではありません。

② ホテル ル・ウエストの1階ロビーは宿泊客専用ですので、ぶーれ開店前の待合場所としても、ご利用はご遠慮ください。

③ 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

④ 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

「空気を読むこと」、これが最近は多くの場所で常識とされているように思います。

では、哲学を学ぶ人達、および哲学カフェにおいてはどうでしょうか?哲学カフェの

場において、どんなことが常識に反するのか?そもそも、「哲学」と冠する営みにお

いてそんなものは存在するのか?はたまた、そういった「常識」を存在させてよいの

だろうか?今回はこういった事柄を、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

 

《お願い》

  1. よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、下記フォーラムにお書き込みください。匿名にして、当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
  2. カフェ参加者によるレビューを募集しています。応募いただいたレビューは次回参加者に配布するほか、本HP上(下記フォーラム)やカフェフィロブログに掲載させていただくことがあります。詳しくは上記問合せ先までお尋ねください。

~記録~

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~フォーラム~

以下の掲示板(フォーラム)は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 6 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    (月曜日, 15 6月 2015 21:19)

    一般常識と、哲学カフェの常識がどう関係するか、気になるところですね。

  • #2

    高橋 (木曜日, 18 6月 2015 22:50)

    ここに書き込みをしても良いのか?
    その判断はなにをもってするべきなのか?
    簡単な判断なのに根拠となるものは見当たらない
    では判断材料となるものはなにもないのか?
    それは自分の中に?
    それとも外?
    あるいは誰かとの間に?
    グループの中の関係性?
    過去の書物?
    これらの複合要素?
    哲学カフェで快適に過ごすためにはそれらを学んだ方が良い?
    哲学カフェを楽しく過ごすためにはそれらは学ばない方が良い?
    そこに知りたいことがあるならば
    どこまでの自分へのダメージを甘んじれるのか?
    それらに答えはある?ない?

    きっと答えはみえないと想うけれど
    いろんな視点を聞くことができればと
    とても楽しみにしています!

  • #3

    BABYMETAL (木曜日, 25 6月 2015 21:47)

    哲学カフェにおける「常識」というテーマについて、全く異なるアリーナがあるのではないかと思います。
    例えば、
    (1)哲学カフェという対話の時間と場所での進め方とかファシリテーターの役割や参加者のマナーなどについての常識を考える
    (2)哲学カフェにおいて「哲学的に考える」ときにおける「常識」の役割や位置づけについて哲学対話をする。
    (1)のテーマでの「常識」とは、哲学カフェによって①「哲学史の知識を知らなくてもよい」「哲学の専門用語を使わない」VS「哲学史や哲学専門用語を使う場合は簡潔に解りやすい説明を付け加える」②「コミュニケーションボールを持っている人だけが発言する」「挙手をしてファシリテーターが指した人だけが話す」③「ファシリテーターが発言しない」「ファシリテーターが整理したり方向づけをする」など違うものがある。哲学カフェ運動の歴史は短いため、「常識」が形成されるとしては、①歴史が短い②実践の場が少ない③参加者の絶対数が少ない④哲学カフェの源流の多様さ、などから、「常識」が形成途上であること、すでに確立した「常識」がないため、今後のあるべき「常識」を考えることになるかと思います。
    (2)のテーマについては、何が正しい信念かということを巡って行われる哲学対話において「常識」がどのような役割を果たしているのか仔細に検討してみるということです。
     例えばある哲学カフェで「暴力は悪いのか?」というテーマだとします。その場合哲学が問い直す対象は「常識」になります。たとえば「暴力は悪い」という「常識」を問い直します。「正しい暴力がある」「暴力の自然性」などの異なる視点が提示されます。この場合の常識とは①ほぼ全ての人が持つ正しいと信じられている信念②過去から続けられてきているなど疑われることのない自明の真実とされていること、くらいの意味で使用されます。基本的に「反証」することが哲学っぽくなります。根本的に考えると揺らいでしまう「常識」はマイナスとしての位置づけです。
     「常識」を改めて見直すと二義性があると思います。
    (1)よいものとしての常識
      ①極端な偏見を避けたバランスのとれた見方②社会が混乱せず潤滑に動かすもの③生きる意味や価値を与える④集団の凝集性を高める
    (2)悪いものとしての常識
     ①創造的思考の邪魔をするもの②社会の多数派の価値観が常識となるため、マイノリティを抑圧支配するものとなる③同調圧力や強制による「同化」とそれに従わないものの「排除」を行う画一的な社会を形成する

    ですから、批判否定される「常識」とはマイナスとしての常識が中心となりがちです。
    しかし、常識否定ばかりをすることをもって哲学とするならば、それほど難しいことではないかもしれませんし、「常識」のプラス面を破壊するだけであれば、生きる意味や価値を失い善悪の判断基準を失う社会不安を煽るだけと批判されても致し方ありません。

    (2)のプラスの意味にこそ哲学する面白さはないだろうか?
    対立しているように見えることを根本的に考えることでが、より普遍的に妥当する信念を発見したり新しい概念を創造すること、新しい常識を作り出すことが「哲学」の役割にならないだろうか。

  • #4

    BABYMETAL (金曜日, 26 6月 2015 07:39)

    先の投稿で最後のパラグラフで、
    「(2)のプラスの意味で」は間違いで、正しくは「(1)のプラスの意味で」でした。失礼しました。

  • #5

    BABYMETAL (金曜日, 26 6月 2015 19:14)

    今回の哲学カフェのテーマは、先ほどの分類でいえば(1)の意味でしたね。
    (1)の場合の「哲学カフェにおける常識」を考える視点について、以下の点はどうかなと思います。
     常識を「多くの人が(誰もが)持っていると想定されている、正しいと信じられている信念」と仮の定義をしておきます。
     哲学カフェのような①歴史が短かく②常識を形成するだけの参加者・関係者のコミュニティや共同体の規模が小さい「語り場」になぜ「常識」という意識が頭をもたげるのかが、むしろ不思議なように思えます。「確立された常識」より「期待している常識」のように思えます。
    そこで、論点として
    (1)なぜある人が「哲学カフェの常識は○○である」という信念を形成するに至るのか?ある人が○○することが正しいと個人的な信念に過ぎない。多くの他者が○○することが正しいという信念を形成するのであろうか?
    (2)逆方向からの視点であるが、個人がどのようにして他者と同じ価値観を共有しているという信念を形成していると確信できるのだろうか?
    (3)「正しい」という規範的価値判断を含んだ常識の場合、どのようにしてそのような正しい・間違いという基準となるものがどこからやってきたのか?外からか。中からか?形成されたのだろうか?
    (4)哲学カフェ固有の方向付けがなぜ起きるのか?どのように起こるのか?
    (5)「常識」とは、ある人にとってそれを常識とみなすから「常識」となるのではな
    いか。
    (6)「常識」は複数あってもよいか。一つにまとめなくてもよいか。
    (7)「常識」が違う人がいて対立が起きたとき、哲学カフェではどのようにして解決するのか?
    (8)哲学カフェの「常識」とは「明示的なルール」のことか?
    (9)哲学カフェの「常識」には、「明示されないルール」「隠れたルール」があるか。「空気」はあるのか?あるとすればどのようなものか?
    (10)哲学カフェの「望ましいことリスト」としての「常識」にはどのようなものがあるか?
    (11)哲学カフェにとって「望ましくない禁止事項リスト」としての「常識」にはどのようなものがあるか?
    (12)哲学カフェの常識は今後どのように決められていくのか?
    (13)哲学カフェの常識は誰が決めているのか?
    (14)哲学カフェの常識は誰が承認しているのか?
    (15)哲学カフェの常識は、時代によって変わるものか?
    (16)哲学カフェの常識は、地域によって、哲学カフェごとに異なっているのか?
    (17)(16)のように異なっていることはよいことか?
    (18)哲学カフェの常識はすべて名文化してよいか?

    参加回数が少ない参加者が少なくないことからも、歴史的に淘汰されてきたとか、多くの人の試行錯誤から生み出されてきたとかいったプロセスが欠如しています。
     この場合「常識」そのものの「常識」を問い直してみたいと思います。同じ時代世代共通の共時的にも

  • #6

    たっちゃ (日曜日, 28 6月 2015 08:07)


    参加予定者の者です。

    哲学が「常識」を疑う営みだとしますなら、むしろその事によって、
    哲学は「新たなる常識」を常に創出してきました、って言えます。
    (=旧い常識を壊すコトと、新しい常識を創るコトの同期的営為としての哲学)

    でも、このケースで言いますトコロの「常識」って、
    常に時系列的に更新されていくモノばかりでもなく、時には
    二千年以上前の「常識」がそのまま温存されていたりもします。

    ・・つまり、「哲学における常識」とは、
    その旧さや新しさそれ自体の謂いではなく、ある種、
    時間や空間を超越したモノであり、また、
    それらを創り出す哲学ってゆ~営為は、実に、
    自らが創出してきたハズの「常識」から永遠に
    逃れられ得ない状態に置かれたままなのかも知れません。
    このよおに、哲学と、哲学におけます常識との関係は、
    かなり深甚ですっておもいますう。

    すみましぇん、取り急ぎですので、
    以上です~^^。