■ 日 時: 2015年8月2日(日) 11:30~13:15
場 所: カフェ・サンラファエル
(名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)
地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分
テーマ: 別れとは何か
進 行: 奥田太郎
参加費: 飲食代実費(440円~)
定 員: 17名
申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)
お陰様で当日参加分も含め満席となりました。
そのため直接お越し頂けてもお席のご用意ができないことがあります。
皆様には大変ご迷惑をおかけましますが、ご理解とご協力の程お願い致します。
問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)
備考:
① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)
② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。
《ご案内》
私たちは、暮らしの中で、さまざまな出会いを求め、偶然の出会いにときめき、多くの関係性を育んでいます。出会いには、新しいものの誕生を予期させる何かがあり、見慣れたものに対してすら、これまで気付いて来なかったものを見出して、新たに出会い直すこともあるでしょう。私たちの暮らしは、出会いに満ちていると言っても過言ではありません。しかし、新しい出会いは同時に、新しい別れの始まりでもあるかもしれません。にもかかわらず、私たちは、その経験の辛さ・切なさからか、「別れ」というものについて、あまりきちんと考えない傾向があるのではないでしょうか。
今回は、さまざまな「別れ」について、哲学的対話を通じて皆さんと考えたいと思います。
《お願い》
報告です。昨日(8/2日)哲学カフェ「別れとは何か」を名古屋駅東口のカフェ・サンラファエルで開催しました。新たな場所で定員を超える22名(初参加7名)の方たちがご参加。進行役の方が早速レビューを寄せてくださいましたのでご覧ください。http://t.co/GrHupe1Umj
— 哲学カフェ@名古屋 (@cafephilo758) 2015, 8月 2
以下の掲示板は次のようにご利用ください。
《開催前》
よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。
《開催後》
カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。
下記に コメント:n となっていれば、現在n個のコメントがある、という意味です。たくさんある場合、コメントは投稿順に並んでおり、入力欄はコメントの一番下にあります。(下記「コメントをお書きください」リンクで飛べます。)
また、投稿するには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。
鞠水 (月曜日, 20 7月 2015 22:51)
杯にお酒をつがせておくれ
どうぞなみなみつがせておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
前半が違っている
酒に酔って間違えたのか
短歌が好きな人だったので
自分なりの意訳だったのか
確かめる機会が巡ってくることは
たぶんもうない
師が贈ってくれた言葉なので
私にとってはこういうものです
別れは一度だけなのに
記憶の中で何度も何度も繰り返してしまう
それは新たな別れなんでしょうか
それとも出会いなんでしょうか
哲ーMETAL (水曜日, 22 7月 2015 01:04)
別れというと、仏教の四苦八苦の「愛別離苦」「怨憎会苦」を思い出します。愛する人に出会えた喜びが大きいほど、やがてくる別れの苦しみは大きい。憎んでしまうほど自分を苦しめる人との出会ってしまうことほどの苦はない。
出会いと別れが自分のアイデンティティを作り、揺るがせ、崩壊させる。別れについて、自ら問いを立て、答えを出す哲学的な思考の準備作業として、そもそも別れにはどのような別れがあるか、別れにまつわることを想定してみます。(1)再会の可不可を基準①再会可能な別れ 例:学校や会社の帰り際の挨拶 ②再会不可能な別れ 例:死別
③再会困難な別れ 遠方・海外への移住 ④曖昧な別れ サヨウナラと言えないまま好きな人と疎遠になる失恋 (2)喜怒哀楽の基準①辛い別れ、別れたくない別れ 親しい人との別れ ②嬉しい別れ、別れたい別れ 嫌いな人との別れ (3)善悪の基準 ①善い別れ いじめっ子とクラス替えになる ②悪い別れ 何らかの事情で親密な親子兄弟姉妹が生き別れる (4)考え方の違いで袂を分かつ ①喧嘩別れ 例:フロイトとユングやアドラー ②建設的な別れ 卒婚 、卒業(5)法律上の紛争になる (6)難易度 ①簡単に別れられる ②なかなか別れにくい (7)自由度 ①自発的な別れ ②非自発的な強制的な別れ (8)別れのタイミング ①あらかじめ別れがある期限があり 例:小中学校の卒業 ②唐突の別れ 例:急死、恋人からの別れ話、解雇や倒産 (10)儀式を伴うもの ①褒めるもの 例:卒業式 ②悲しみを和らげる「喪の儀式」があるもの 例:初七日、四十九日、初盆、一周忌、三周忌 (11)そもそも別れの概念について「別れる」前提には2人以上の人間に出会いと一定時間の「関係」が先行しなければならない。関係の質について①選択したもの カップル ②選択出来なかったもの 例:親、子ども、同級生、クラス担任 ③親密性 ①好き嫌いがある親密性がある共同体 例:家族 ②共通の理念や目的で出会い対となる関係、所属、関係構築である組織 例:企業 (12)実際に顔と顔を合わせた出会いと関係からか否か 否の例:ネット上のコミュニティのメッセージ交換、オンラインゲームのチームメイト (13)出会いと別れの時間 ①極端に短いもの=一期一会 例:哲学カフェ ②長いもの 例:高齢の親の死 (14)喪失する=別れる対象 大切なもの(人とは限らない)を喪う①愛するペットを喪う ②大地震や津波で故郷や自宅や肉親や仕事を喪う ③深く愛していた性愛(異性愛、同性愛など)人に振られる ④愛着のある会社を退職する解雇されるアイデンティティの危機になる ⑤自分自身との別れ 認知症の進行、自分の死を受け入れること
鞠水 (水曜日, 22 7月 2015 14:53)
そもそも別れとは
夜眠ることは自分との別れなのか?
意識が断絶している以上別れとも言える
しかし自分は変わらないと仮定するならば別れではない
では眠ることは自分との別れと仮定するならば
断絶の時間は関係があるのか?
転寝でも意識は断絶することはあるが
短ければ1秒もないのかもしれない
それが車の運転中であれば仮説ではない別れになる可能性もある
あるいは自分の気持ちが変わってしまった場合には?
急に気持ちが冷めてしまった
あるいは覚めてしまった
褪めてしまったなど
体験した人や体験に巻き込まれてしまった人は多いと思う
掌を返すように共感がなくなった時
物理的には近くにいるのに
別れているといえるのではないか
これも別れだとすると
相手との別れなのだろうか?
それとも過去の自分との別れ?
両方が入り混じりながらも
別れていない部分もまた混ざっている
この精神状態の時に相手が隣に眠っていたりすると
別れていないと定義されることが多いが
その判断は正しいのだろうか?
「いないいないばあっ」は別れなのか?
ただの遊びでしかないと思っているが
相手は本気でいなくなったと考えている?可能性も高い
より正しい判断をできるようになったのだろうか?
鞠水 (木曜日, 23 7月 2015 19:19)
知人に仕事を依頼しようと携帯に電話をしたら
別の人の番号になっていた
自分の名前と信用で仕事をしている人間に
電話番号を変える贅沢は許されない
変えなければいけない理由を探られることになる
私も彼に大事な仕事を依頼することはもうない
信用を失うということも
別れの原型なのだろうか
そこに存在しなくなる別れではなく
そこに存在しているのに関係性が変わってしまう別れ
再会しても埋められないものがある関係
今回は彼と接触すらしていない
数年前に別れている
なので関係性が変わっただけともいえるかもしれない
では再会の約束をした相手が帰らぬ人になった場合の別れは
いつなのだろうか?
最後に意思を疎通した時?
それなら一方的にこちらが相手を見ただけで
声も視線も交わしていない場合は?
それがビデオメッセージなら?
タイミングは?
この世にいなくなった時?
それともその事を知った時?
その事を受け入れた時?
共通の友人と言葉を交わした時の喪失感は別れといえるのか?
再会を信じて認めることができなければ
別れではないといえるのか?
哲-METAL (日曜日, 26 7月 2015 07:49)
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
于武陵の漢詩「勧酒」を井伏鱒二が訳したものらしい。
突っこませて頂くと、
(1)なぜ「サヨナラ」だけが人生だなのか、なぜ「こんにちは」だけが人生だにならないのか。
出会いがなければ別れもない。出会いと別れのどちらをとるかで
ポジティブにもネガティブにもなる。
(2)花が嵐でバラバラに散るというのは「自然現象」である。これを「別離」(漢文では)と解釈するのは人間である。
化学反応式は分離と結合で表されるが、分離はすべて「別れ」になるのか。「分かれる」は自然現象のように元々のものが幾つかのものなることとし、「別れる」は人が、主観的に「別れ」と解釈すると限定してはどうだろうか?犬や猫はパスします。
また、「別れ」とは単純に人と人が離れる、分かれることを指すのではなくて、離れるとき、分かれるときに、分かれる人の主観(意識や心程度です)に悲しい、嬉しいあるいは別れたい・別れたくないなどの感情や意識が生まれるものを指すと限定してみてはどうだろうか?
高校3年生の同じクラスの生徒と卒業式を迎えたとしよう。A君、Bさんとの離ればなれになるのが辛い、寂しいと感じるとしたら、それは「別れ」とする。ところが話したことが無く関心がなかったCさんと離れることについては特に感傷的にはならないならば別れとしない。
群衆といった、たまたま事件や出来事に居合わせた集団が解散するときにも、名前が分からない一緒にいても意識の対象になっていない人との間には「別れ」が存在しない、ということに近いからである。
「分かれる」ことに「意味」「価値」「評価」あるいは意識的であれ無意識であれ選択的に対象として、背景から図として浮かび上がると「別れ」になるということである。
人間関係の継続や濃度、遠近、太細に関わる事としたらどうだろうか。
鞠水 (日曜日, 26 7月 2015 22:58)
心が前を向いている時には出会いこそが人生かもしれません
ではサヨナラだけが人生と感じるときは?
過ぎ去る時間をいとおしいと感じるときではなかろうか
砂時計の移り変わりを
もうこれだけしかないと感じる
それをネガティブに感じることもできる
しかし人によっては過ぎ行く時間を意識することで
腹を括って歩み始める人もいる
「コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ」
言葉を重ねることは
過ぎ去る時間への未練なのではなかろうか
暫しの別れが永い別れになってしまう経験が
別れの意味を少しずつ変化させて
単純な別れに化学変化のような劇的な現象を引き起こす
そして時には別れてからその価値を知り
時間が経ってから後悔が募る関係もあります
あるいは人づてに伝わってくる情報を追加したり
経験を積まないと理解できない関係性もあります
別れの尺度には科学反応のような要素もあるのではないでしょうか
鞠水 (火曜日, 28 7月 2015 14:26)
地下鉄で通勤していると
不思議な表情をした人をたまに見かけます
スマホのゲームに我を忘れて没頭している姿
集中のあまり周囲の事が全く見えておらず
ドアの真ん中に立ったまま
横をすり抜けていく人に気が付きもしない
この状態は
周囲の出来事と決別しているといえるのでしょうか?
それとも思考との決別なのでしょうか?
いぜれにせよゲーム以外の出来事と決別している
その中でも表情は2種類に別かれ
極度に集中が高まっている人と
魂が抜けれたように虚ろな人
後者の人は
中毒症状として診断も可能と思われます
各種の自己判断が不能になる依存症
これらも別れといえそうな気がしますが
いったいなにと別れてしまったのでしょうか?
別れが対象との離別だとするならば
自分が自分でなくなってしまう依存症は
誰にとっての誰からの別れなのでしょうか?
哲ーMETAL (金曜日, 31 7月 2015 00:43)
「分かれ」も「別れ」も、もともと一体とか一つのものから、二つに、幾つかのものに分割されたり別々になることを指すこととしてはどうか。「別れ」は人間に、「分かれ」は非人間に使用するとする。
特に今回のテーマ「別れ」は、人間は出会いと別れをセットにすることに加えて、感情を伴うなど意味のある関係がなくなることに絞っみたらどうか。
多義語と曖昧さを減らさなければ、論理や論証が成立しない。真偽のある命題ではなくなる。三段論法も使うない。誤謬だらけになり、対話が困難にはなる。
言葉の意味、意義の中核や対象を定め、直喩、隠喩などで使用していないか検討して、意味が違うものは、それこそ分けて考えるようにしたらどうだろうか。
すなわち、元々、関係なく分かれ/別々にいるモノ、ヒトには関係の変化である分かれ/別れが存在しないとする。
自己自身に関しては、自己の生き方や在り方を全く変えることを自分との「決別」として別れに含める。二度と会わない覚悟や宣言を決別とする。
意見がコロコロ変わる人や事までは、自己との別れの問題にはしないとする。
いずれにせよ、拡散的な思考から集束的な思考、集束的な思考から拡散的な思考を、メリハリをつけたら良いと思います。
哲ーMETAL (金曜日, 31 7月 2015 01:06)
サヨナラだけが人生だ が何を意味するのか考えてみます。
1.サヨナラが普通であるならば、別れがあるときに別れを悲しむことはおかしいと理性的に考えることが出来る。感情をコントロールして、感情の変化を無くし心の平安が得られる。
2.サヨナラだけが人生だと考えると、人生で出会うことに意味を感じられず、生きている意味を得られない虚無感を感じる、諦めを感じる、儚う気分に浸り、考えることをしなくなる。
3.サヨナラだけが人生だ、としんでしまったらそれまでよと考えた場合、諦めや自暴自棄にならず、かけがえのない自分の大切さを実感し、たった一回の生を肯定して強く生きる決意と努力をする。
4.サヨナラだけが人生だということを否定することから、未練や執着や嫉妬や不死などの苦しみや不可能な願望がはじまる。従ってサヨナラだけが人生だと知る事が、余計な苦しみや迷いから抜け出せる。
サヨナラだけが人生だ の解釈をザッとあげてみたが、この前提からも生き方や倫理も一義的とは言えないかなと思います。
たつみ (金曜日, 31 7月 2015 16:39)
井伏鱒二が
サヨナラダケガ人生ダ
と訳した個所は原詩では
人生足別離
前野直彬(岩波文庫)の注解によれば
○足 たっぷりある。多いこと。
で、
人が生きて行くうちには、別離ばかりが多いものだ(さあ、くよくよせずに飲みほしたまえ)
とある。
井伏の訳に比べて散文的で物足りないだろうか。ぼくはむしろこの直訳(人生、別離が多く、たっぷり)の無骨な飾りなさに、惹かれる。人生足別離
*
芭蕉(「奥の細道」巻末)の
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
奥の細道はこの軽やかな調子の句で終わっている。
旅の終わりの句もその軽さが飄々として面白い。
鞠水 (金曜日, 31 7月 2015 23:08)
亡き王女のためのパヴァーヌ
今回のテーマを考えると面白い曲名と思いました
別れというものを境にして
別れがあった後に思い出を曲にしている
(実際の話は今回は回避します)
甘く切ないどこか郷愁を誘う曲
この曲を聴くと多くの人が懐かしい過去を
思い出すような感覚を覚える
視点を変えて考えると
この曲に共感を覚える人が多いということは
懐かしい過去を思い出すかのように作られている
別れは現在にも未来にも存在しない
ある種の別れは人為的に追憶できるということでしょうか
また
音楽という存在は出会いなのでしょうか?
それとも別れなのでしょうか?
音とは聴くと同時に「別れ」ています
それとも「分かれ」ているのでしょうか?
もし音楽が「分かれ」なのだとすれば
人が想いをのせて奏でる音楽は「物」なのでしょうか?
物だとした場合であっても
その物との「分れ」が人との「別れ」となる場合
ある物を失うともう会えなく人がいる等
それは「分かれ」それとも「別れ」なのでしょいうか?