「友だち」って誰のこと?

(2015年8月22日)


~告知~

カフェ・ティグレ
カフェ・ティグレ

■ 日 時: 2015年8月22日(土) 10:00~11:30

場 所: カフェティグレ伏見店

    (名古屋市中区錦1丁目10-11、ユーキホテル1階)

     地下鉄「伏見駅」10番出口より徒歩1分

テーマ: 「友だち」って誰のこと?

進 行: 髙木美歩

参加費: 飲食代実費(390円~)

定 員: 15名

申 込: 不要 (ですが、なるべく事前にご予約ください。定員に達し次第、申込みを締切ります。)

事前申込み人数が13名に至りましたので、受付を終了させて頂きました。残っている2席は当日飛び入り参加の方が現れたときのため空けておきたく。なお、当日参加ももちろん歓迎なのですが、必ずしもお席を確保できるとはかぎりませんので予めご了承ください。ご理解頂けましたら幸いです。

問合せ/申込先:staff.nagoya*cafephilo.jp (*を@に要変換)

 

備考: 

① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。詳しくはこちらを)

② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。

 

《ご案内》

皆さんはいったい何人友だちがいますか?私たちは日頃付き合う人に「知人」「友だち」「親友」などとなにげなく言葉をあてはめていますが、その分類はどこで決まるのでしょう?最近では「メル友」「ママ友」「キスフレ」など、独特の友だちの形も見られます。また、友だちは私たちの人生を豊かにしてくれる半面、時に悩ませたりもします。そんな「友だち」という存在を、私たちはどのように考えているのでしょう?

初めての方も大歓迎、お茶を飲みながらじっくり言葉を交わしましょう!

~記録~

Twitter速報

facebook報告


~フォーラム~

以下の掲示板は次のようにご利用ください。

 

《開催前》

よろしければ、当日の対話で議論してみたい論点や質問してみたい疑問などの提案がありましたら、こちらにお書き込みください。匿名にして当日の配布資料にさせて頂いたり、進行の参考にさせて頂くかもしれません。

 

《開催後》

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

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コメント: 24 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    鞠水 (火曜日, 04 8月 2015 06:40)

    一番上質な物やサービスはお金で買うことができない
    こちらもかなり物議を呼びそうな発言ですが
    「友だち」と似ている気がします
    それなりの相手と一緒にいることが多い
    そして経済的な価値観での定義が難しい

    困った時に助けてくれる
    何かあっても見捨てたりしない
    便利な存在?

    なんでも話ができる
    一緒にいると癒される
    セラピー?

    一緒にいると楽しい
    娯楽?

    理由がなくても一緒に居たい
    寂しがり?

    海賊王を目指すような仲間
    それは友達ではなく任侠です

    幼馴染
    これは大事ですね
    でも一定の経験を積んだ年齢になり
    過去を話す間でしかないならば・・・
    一定の年齢を越したらまた重要になるかもしれません

    このまま書き連ねていくと人格破綻者と言われそうですが
    誰かに「友達です」と紹介されて嬉しいと思えれば
    その相手のことかな?
    相手の真意さえ問わなければ

  • #2

    たつみ (木曜日, 06 8月 2015 00:12)

     友だちというと、かなり古くなりますが与謝野鉄幹の詩の一節「友を選ばば書を読みて六分の侠気四分の熱」がまず浮かんできました。次に、これもまたかなり以前の作品ですが 映画の「スタンド・バイ・ミー」が浮かび、三つ目が太宰治の「走れメロス」です。こうした連想は、もう少し続けるならぼくにとっての「友達」が少しはっきりして来そうな気もします。また「ぼくの友人」ということで考えると」浮かんでくる幾人もの子供のころから現在に至る現実の友人たちの様子や顔かたちもまた、別にありますね。

  • #3

    たつみ (木曜日, 06 8月 2015 12:27)

     また漱石の「坊ちゃん」、「心」などの小説も、考える材料になりそうです。

  • #4

    鞠水 (木曜日, 06 8月 2015 23:23)

    チベット仏教の入門者や子供向けの本を読んでいると
    「まっすぐな人格でなければ、友を得ることはできない」
    と記載されていた
    どうやら友を得るのはとても難易度が高いことらしい


    捕食される可能性の高い生き物は群れを作ることが多い
    これは優れた戦略のようでよく目にします
    そして群れの基本単位は多くの場合血縁である
    群れから離れて単独行動をとると生存率は下がる
    これはヒト科の集団を観察しても
    大量のデータを得ることはできそうです
    家族とはぐれると生きていけないかもしれない
    では血縁以外ともグループをつくれるなら?
    孤独にならないように血縁関係がなくても
    一緒にいてくれる相手がいるならば
    血縁としかグループをつくれないよりも生存率は高い
    我々はその子孫である可能性が高いので
    当然その関係は重要なものといえるのではないでしょうか
    他の固体よりも自分のことを優先してくれる相手が多ければ
    固体同士の関係性を強めることができれば当然生存率も上がる


    面白い仮説とは思われるのですが
    なにか曲がった方向へと導かれそうな・・・・


  • #5

    哲-METAL (金曜日, 07 8月 2015 02:44)

    1年生になったら(詞 まどみちお 1番)
    「いちねんせいになったら」(まどみちお作詞)
    いちねんせいになったら いちねんせいになったら ともだちひゃくにんできるかな ひゃくにんでたべたいな ふじさんのうえでおにぎりを ぱっくんぱっくんぱっくんと

    「日本人の平均」という本の、友だちの数の項目で調査会社の調査では、2006年は10.2人が2011年にひ14.5人に増加しているが、「何でも話しができる相手」は2.7人から2.8人と「心友」は変わらないのではと分析していた。先ほど本屋さんで立ち読みしていて知りました。
    概念を定義することとその定義が示しているものの集合の範囲や境界線について提起しますが、辞書の定義ではなくて、哲学カフェらしい意見が交わされればいいなと思います。
    問1 「友だち」という言葉が指し示しているものをことばで列挙してみます。友だちと友だちでない境はなにだろう。

    ①刎頸の友(その友のためにはお互い死んでもよいという関係②畏友③盟友④戦友⑤親友⑥同志⑦竹馬の友(幼友達)⑧悪友⑨旧友⑩ノミ仲間⑪趣味の友⑫連れ⑬ダチ⑭ペンフレンド⑮仲良し⑯同僚(チームメイト)⑰遊び友だち⑱仲間⑲メル友⑳クラスメイト(※私にとって「メイト」とはBABYMRTALの熱心なファンのことを指します。悪しからず)㉑ママ友㉒セフレ㉓キスフレ㉔ビジネスパートナー㉕顔見知り㉖知人(知り合い)㉗「友達の友達」「友達の友達の友達」㉘名刺交換者㉙関係者

    ①友だち夫婦②友だち親子は「友だちのような夫婦」「友だちのような親子」の直喩ですから友だちではありません。また、③「21世紀少年」の「友だち」は隠喩として考慮外にしたいです。

  • #6

    哲-METAL (金曜日, 07 8月 2015 03:02)

    以下、雑駁ですが、よくある問いを列挙してみます。
    問2 友だちの反対概念・反対語、友だちではないものから考えてみてはどうだろうか?友だちの反対は何だろうか?
    問3 友だちは文化圏によって意味が異なるか。英語では何だろうか?それはどういった人たちを指すのだろうか? フレンド、フェロー、パートナー
    問4 問3に関わってアメリカ発のフェイスブック(SNS)に戸惑ったことはないか?すなわち、誰にでも友だち申請ができますか?またはどのような人に友だち申請されると戸惑っていますか?上司、目上の方、あまりよく知らない人、内心嫌いな人などなど。そもそも「ともだち」という言葉に戸惑ってませんか?
    問5 鷲田清一さんが著書の中でよく「(日本では)同じ年齢でないと友だちになれないところがあるのはなぜか」と書かれます。学年集団では対等な友人関係が作れるが、年齢の違いは先輩-後輩の上下関係となり敬語や待遇を変えなければならず、友だち関係になりにくいとしています。
    問6 友だちを情緒的な結びつきの強さ・信頼関係の強さで定義するとすると、逆に「親子」「家族」「兄弟姉妹」と「友だち」と「血縁」以外にどのような違いがあるのか?
    問7 親密な関係を特徴とするのであれば、性が関係する場合はどうか?ヘテロを前提にしてホモセクシャリティを想定外の古典的な問いだが「男女に友情は成り立つか(=性欲や異性愛の対象となる関係どうしで友情は成り立つか)」とか「恋人」と「ボーイフレンド・ガールフレンド」は友だちなんだろうか?好きな性愛対象者から「私たちは友だち」といわれて嬉しいか?
    問8 信頼関係を特徴とする場合、どこまで自立や依存の関係や責任や義務があるのか?
    例えば、「友だち」から「お金を貸してくれ」という依頼がある場合どこまで応えられるのか?経済的なビジネス的な利害損得関係が発生して友だちではあり続けられるか?信頼関係があるから友達か、友達だから信頼関係が生まれるのか。
    問9 友達であるかどうかで「呼び方」は変わる場合がある。距離感はどのあたりか?
    (1)氏名、姓名 (2)~さん(3)~くん、~ちゃん(4)呼び捨て (5)ニックネーム 
    問10 友達にジェンダーは関係するのだろうか。「男同士の友情」「女同士の友情」ゲイ、レズ、おなべどうしはどこか違いがあるか?

  • #7

    哲-METAL (金曜日, 07 8月 2015 03:19)

    「友だちはいいもんだ」(作詞 岩田時子)
    友だちはいいもんだ 目と目でものが言えるんだ 困った時は力をかそう 遠慮はいらない いつでもどこでも君を見てるよ 愛を心に君と歩こう □みんなは一人のために 一人はみんなのために □みんなは一人のために ひとりのために

    問11 友達は何人いるという問いに、SNSの時代か何百人何千人と回答する人がいる。「友達は数人」「友達と呼べる人はいない」と答える人もいる。なぜ、このようなことが起きるのか?

    問12 「友達」を交際や交流相手一般を指すとする。友達が多いことの利点は何か?多ければ多いほどいいか。
    問13 「友達」が「親密な関係」として極端に美化され肯定されることで生み出される苦しみや悩みは何かないか?
    ①学校時代に修学旅行や遠足で「好きな者どうしでグループを作りなしい」と言われて恐怖を覚える子どもがいないか?②学食で一人で食べているところを見られるのが恐くてトイレで食事をする「便所飯」.OLが昼食時間誰と食べるのかで神経をすり減らすという話もあるが、問題は友達より「一人」でいることへのマイナス観が強すぎることにないか?
    問14 友達とは「同調圧力」どうして逆機能や過剰機能してないか?
     ①大学生協などでは一人で食事をしたい人向けの「ぼっち席」があるともいう。何故か。
    問15 友達の紐帯が外部や異質な他者を生み出したり紐帯を強めるため「いじめ」「ヘイトスピーチ」「排除」を生むのではないか?
    問16 友達関係維持は不安定ではないのか?
     LINE外しなど、友達の境界線上では神経を使い過ぎている。
    問17 友達とは「友達」-「敵」といった単純な白黒関係となるため、友達には優しいが友達ではない人やライバルには冷淡あるいは攻撃となっているのが現実ではないか?
    問18 ペットやロボットは友達か?
    問19 介護者(介助者)/ボランティアは友達になれるか?_
    問20 友達が足を引っ張る、悪い影響を与える、ということはないか?

  • #8

    哲-METAL (金曜日, 07 8月 2015 03:24)

    問21「AさんはBさんの友だちである」という言明や確信はどのようにして成立するのか?
    Aさんが「Bさんは友達」と認めれば友達か?しかしBさんが「ただの知り合い」と考えていて友だちとみなしていない場合はどうなるか?片方が友達と思っていない場合はどうなるのか?両方一致してないと友達と言えないのか?

  • #9

    哲-METAL (土曜日, 08 8月 2015 08:02)

    「友よ」(作詞 岡林信康)
    友よ 夜明け前の闇の中で
    友よ 戦いの炎を燃やせ
    夜明けは近い 夜明けは近い
    友よ この闇の向こうには
    友よ 輝くあしたがある

    (1)どのようなところで友達なる人と会っているのか
    ①近さ 職住 地縁や社縁②会う頻度の多さ 学校縁、社縁
    ③ネットワークにつながるハブ友達の紹介④知的好奇心や遊びやボランティアなど同格の人の集まり選択縁、知縁⑥その他
    (2)極端な事例から考える
    ①友達が0人とは何か?
    非社会的(人付き合いが苦手)、対人恐怖、ひきこもり(パワーレス)、精神状態が鬱状態、人間不信の経験、「友だち」の定義のハードルが高い人間観* 孤立、孤独は別のテーマになる
    ②友達が無限大とは何か。
    「友だち」の定義が緩い、知り合いと変わらない。決まった友達がいない。*極大は友愛・博愛・同胞愛と呼ばれるものなのか?
    (3)方法的に「世代論」や「多様な人間」観に立ってみる。
    <1>今時の若者の友だち
    自分にとって都合がよい(メリットがある)友だち=メリ友化している。例えば「授業友達」(授業の時だけ一緒に受ける友達)、「テスト友達」(テストの時にだけ連絡をとりあう友達)、「趣味友達」(趣味のときだけ会う友だち)、「食事友達」(食事のときだけ会う友だち」、「ネット友達」(ネットだけで話す友だち)
    る。
    <2>古典にみられる友だち
    *友だち通常の意味
    ・莫逆の友(互いの気持ちがぴったり合った、争うことがないような非常に親しい友人)・類は友を呼ぶ(気の合う者や似通った者同士は、自然に寄り集まって仲間を作る)
    * 友だちを「選択する」ことを強調するものがある」
    ・益者三友損者三友(交際して自分の為になる友人には三種類あり、交際して自分が損をする友人も三種類ある。前者は正直な友、誠実な友、博識な友。後者は不正直な友、不誠実な友、口先のうまい友)
    ・己に如かざる者を友とするなかれ(自分をより向上させるためには、自分より劣った者を友にすべきではないという教え)
    *君子の交わりとして美化するも理想として今では廃れたとするものがある。ハードルが高い。
    ・弾琴の交わり
    ・君子の交わりは淡さこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し
    (4)個人主義的な生活様式や価値観が広がる中で「友だち」は過去のものと同じでいられるものだろうか。 お一人様消費は定番化している。自分のペースで、やりたいことが、周りに気を使わずにできる。一人でカラオケも恥ずかしくない人も珍しくない。
    (5)携帯電話やスマホは「ともだち」にどんな影響を与えているか。①「友だち」の意味の変化、②「友だち」と出会う機会の増加、③「友だち」の人数④友だちづきあいの変化⑤友だちの管理

  • #10

    鞠水 (土曜日, 08 8月 2015 12:56)

    友だちの境目はよく判らない
    ではより大きな境目の「仲間」は?
    敵ではない相手の事
    こちらの場合にはグループの単位と関係によって
    変動する要素がとても大きくなります
    学校の場合で考えると
    クラス内では敵対しているグループでも
    クラス対抗であれば仲間になる可能性があります
    逆にクラス対抗なのに
    相手のクラスに味方をするグループもあるかもしれません
    仲間の定義は変動するようです
    では仲間であることと「友だち」には矛盾は起きるのでしょうか?
    これを地域での紛争に置き換えると
    「友だち」であった相手が仲間ではなくなることは考えられます
    この際壊れてしまう関係もあれば壊れない関係
    壊れても修復できる関係、修復したと思っている関係
    修復せず会いもしないけれど継続する関係
    壊れたままだけれど信頼関係が残っている関係
    仲間の定義が変動するならば
    「友だち」の定義は変動しないのか?
    もし変動しないものが本当の「友だち」ならば
    それは一般的に言われている「友だち」と同じものなのでしょうか?



  • #11

    たつみ (土曜日, 08 8月 2015 18:33)

    友だち夫婦、友だち親子、友だち師弟とは?

  • #12

    鞠水 (日曜日, 09 8月 2015 22:47)

    男性の場合
    暇なときに一緒にいる
    ろくでもない事をやらかす時に一緒にいる
    出かける時に一緒にいる
    なんとなく一緒にいる
    不安になると一緒にいる
    忙しいと会うことが減る
    恋人ができると会うことが減る
    結婚すると会うことがもっと減る

    友だちとのリストの内容は他愛無い日常的な事が
    延々とつらなる永いものとなると思います
    このどうでもよい様なリストは
    青年期を無事に通過できるかどうかの
    運命を分けるような存在になりそう気がします
    「友だちに会えばその人のことが判る」
    誰の言葉なのかは知りませんがそんなものなのでしょうか

    友だちとは
    その人を支えてくれる土台なのか
    縛り付けるしがらみなのか
    いずれにせよその人を形作る重要な存在なのでしょう

    友だちについて
    良いことを言葉にしようとすると嘘くさくなってしまう
    これは実体験が偏っているからなのでしょうか

  • #13

    哲ーMETAL (月曜日, 10 8月 2015 08:58)

    テーマに関して広げて考えてきたので、今度は一旦狭くそこそこ深く考えて回収してみます。

    友だちってだれ?
    (1)共(とも)にする人間関係の一つである。
    友とともは音は同じ。偶然かもしれないが、友達とは「共にいる、共に行動する2人以上の人達」
    (2)プライバシーを共有できる関係の一つである。
    何でも話せるとは、かなりヤバイ話とか、誰それか好きという恋バナ、嫌いと言う陰口、困っている相談事を話しながらも第三者には秘密にして口外しないという暗黙のルールを守るという信頼関係がある。家族は大小便の世話、恋愛関係は性まで分かち合うが、リラックスできるにしても友だちはそこまではいかない。しかし、友だちのプライバシーのためには拷問を受けても割らない方もいるかもしれない。
    (3)どこかで、友だちという確認や承認をしている関係の一つである。
    友だちというコンセプトは生まれ持ったヒトの生物としての戦略的な生存戦略かもしれないが、「友だち」とは何か言葉にすると、集団や社会の文化でもある。
    私は昔脳性麻痺のRさんの介護をしていました。長く介護をしていると親しくなります。Rさんとは年が20歳以上離れてました。ある時
    「紹介します。友人の○○君です。」と紹介された時に「ああ、友だちとして見られているんだ」と確認できて嬉しかった。
    (4)人格として対等な関係である。
    上司と部下、師匠と弟子、先生と生徒などの上下関係や医師・弁護士・大学教授など古典的な専門職
    の権威などによる非対称的な関係ではない。年齢、職業、社会的地位、国籍、民族、性、学歴、所得、階級の影響がないとは言えないが、違いを越えて対等な人間関係がみられる。
    (5)無償の相手のための行為をする関係の一つである。
    困っている時に相談された時に、コンサルタント料金を請求しはしない。経済的利害得失のための関係ではない。ただ、これに過剰に期待して甘えた行動をすると友だちを失う。
    (6)継続するか絶交するか、期待と応答の間に時々に投票する、賭ける、試される不安定な関係である。
    血縁でなく法律の義務も責任もない。しかし、特定の期待と応答のなかで生まれたり関係が絶たれたりする。
    (7)何かを得られる資源であり、所有すると何かしらの資源が得られる資本でもある。
    バンド仲間やテニスサークルは、音楽やスポーツという楽しみを得られる資源であり、助け合いやサポートという形で自分の生活維持をする。「友だちの数は寿命に影響する」説もある。フェイスブックは、即物的な人脈拡大の一つでもある。ビジネスツールであり、誰の友だちかで評価が上がりも下がりもする。
    (8)友だち観は複数ある。
    親しき中にも礼儀あり、私のものはあなたのもの・あなたのものは私のもの、と人間関係の距離や質は多様である。
    yZLor


  • #14

    鞠水 (月曜日, 10 8月 2015 21:39)

    友だちだよね?
    つづく言葉はうつろに響きます

    もし自分を変えたいと思っているのならば
    過去からの交友関係を絶ってみるのは手軽な手段ではある
    劇薬につきお勧めはしない
    得るものは大きいが
    失うものもあまりに大きい
    孤独や暇な時間を有効に使うことは人生の初心者向きではない
    人は独りであれば新しいことに馴染みやすいが
    人間関係を継続していると変われないことがあり
    引き戻されてしまうことも多い
    出家とは成功例の多いシステムだと思う
    「友だち」も自分を形作る輪郭のようなもの
    輪郭がなくなれば中身は形を保てない
    「友だち」が友だちではなかった事が判った時
    多くの人は大きなショックを受ける
    自分を形作るものをいきなり失うのだから
    当然の現象なのでしょう
    ショックを受けないとすると
    それはそれで見えてくるものがあります
    失ってみるとその価値が判る
    ただし人は自分で造った物語に酔う習性もあるので
    受けているショック自体が自分で作り出した
    幻影に過ぎないことも多々あると思われます
    大事な人を失った悲しい自分に酔っている状態です
    では失う前の状態は幻影ではないのでしょうか?

  • #15

    鞠水 (木曜日, 13 8月 2015 14:41)

    「友だち」の存在に時間、国籍、言語は関係があるのか?
    私には名前も知らないし言葉も判らない
    二度々と会うことはなさそうな友達がいます
    20年程前の神戸の被災地で
    彼は赤ちゃんを連れて家族でテントに避難していた
    たぶんベトナムの人だと思う
    日本語が全く判らないので生活用品がなかったので
    物資の集積所に連れて行き
    子供の服と食料が手に入るよう紹介をした
    当時の私には胡散臭いアジア人にしか見えていなかった

    半年ほどして一人で丸太を運んでいると
    不意に手伝ってくれる男性が現れた
    私は顔を覚えていなかったけれど
    彼は覚えていてくれた
    言葉が判らないので意思疎通が出来なかったが
    当惑している私に「友だちだから」と言って
    黙々と手伝ってくれた
    もうすぐ作業が終わるという頃に
    彼は手を振ってサッといなくなった

    彼が私のことを友だちと呼んでくれたのだから
    私にとって彼は友だちである
    そして短い時間で常識を打ち破ってくれた恩人であり
    人生に指針をくれた師でもあり
    ベトナムの人は義理を忘れないと教えてくれた
    大切な人です

    2回しか会っていないし時間も15分程度
    会話も通じなかった
    しかも物や労働を通した利害関係でしかない
    もし友だちの定義をつくるとすれば
    該当しないのかな?

  • #16

    哲ーMETAL (土曜日, 15 8月 2015 01:57)

    友達のような親子=友達親子は、友達は形容修飾しているが、対等さや親密さが友達のようだという直喩であるが、友だちと親子は別のものであることが含意されている。友達夫婦もそうだ。扶養や相続の義務、権利は友達にはなく、親子や夫婦には義務、権利はある。親密さがない親子はあっても、親密さのない友達はないのではないだろうか。

    ベトナムの事例での、友達には、友達らしさ=フレンドシップは宗教と関係があるようだ。
    私は学生時代、韓国のハンセン氏病回復者定着村の建設や支援や交流の国際ワークキャンプに参加した。今でこそワークキャンプはありふれているが、このFIWCが主催する国際ワークキャンプは嚆矢と言われていた。フレンドシップ・インターナショナル・ワーク・キャンプのフレンドシップは友情や友達がらしさでもあるが、「フレンド派」キリスト教すなわちクェーカー教が主催していた国際ワークキャンプが世俗化した後の名残でした。キリスト教の価値観と関係がある。

    人類は神の被造物であり、神の子であり、神の前では平等である、というキリストキリスト教の価値観を前提に、困った人を救済する愛は隣人愛の実践で、友達として行うといっても仲が良い意味の友達ではなく、汝の敵でも友達であるものです。We were the world(私たちは神の子として仲間、友達である)と途上国の貧困への支援を歌いあげた時と同じく、宗教上の隣人の意味があったのではないだろうか?

    今回のテーマの友達は、結びつけながら排除するタイプの愛と自己愛や家族愛のような利己的で閉鎖的な愛を乗り越える愛であっても、底辺にある価値観を括り出すことが課題かと思います。

    友人はプライベートの要素が高く、隣人は公共性が高く感じます。そして混じりあうところを感じます。「隣人祭り」はフランスで始まった新しいコミュニティ作り運動ですが、私は勤務校の高校生とボランティア活動として取り組んだことがあります。世俗化したものの、孤独死や孤立死を無くしたい、無縁社会を何とかしたいという運動。神戸の被災地では赤の他人に手を差し伸べる行為に友達だからと言ったベトナム人の真意を推し量ってみた仮説です。

  • #17

    鞠水 (月曜日, 17 8月 2015 13:27)

    宗教と友だち!
    この視点はありませんでした。
    日本では風習とか世間体とか常識など
    空気?を構成しているものの根底にある
    土着の神道以前の宗教、神道、仏教、儒教
    その後に入ってきたキリスト教、民主主義、社会主義
    バブルとバブルの崩壊などの懐事情
    テレビ、ドラマ、漫画、アニメなどの普及と影響
    そしてパソコン&ネット回線
    SNS&スマホ&無線のネット回線
    友だちとの関係の前に
    人間関係の土台になっている生活環境の影響・・・・

    友だちとの関係性はそれぞれ個性的と思っているのですが
    環境での違いはどうなのでしょうか?

  • #18

    たつみ (水曜日, 19 8月 2015 16:03)

     この哲学カフェの参集者であるぼくらにとって、互いが友人でない、あるいは友人であるとか、時がたち次第に友人となるということ(もしあるとして)はどのような意味を持つのだろうか。

  • #19

    鞠水 (水曜日, 19 8月 2015 21:19)

    互いに会いたいと思っていて会えれば嬉しい相手でありながら
    恋愛関係では無い関係

    当たり障りないところですが
    これだけだとかなり広範囲にあてはまる
    人間ですら無くてもよい
    近所の犬や猫、人によっては馬や牛
    その他の意思疎通の可能な関係でれば該当する
    犬好きや猫好きの方に対して
    この意見を否定することは感情的な困難を伴うと思われます
    家族であると表現される方もあるでしょう
    友だちという存在が理性ではなく
    感情を伴うものであるらしいということが
    言葉にする上で厄介な存在になる
    理論的に友だちの存在を辿っていくと実像と離れていくのは
    友だちの存在が感性に訴えるものであり
    理論や利で測るには無理があるからなのでしょうか
    もちろん後付けの理由などいくらでも言えます
    必要性もメリットも言葉にできるけれど
    なぜその人と友だちになったのか?
    なぜ別の人とは友だちにならなかったのか?
    そこに理論的な理由はあるのでしょうか?
    もし理論的な理由から友だちになったのだとすれば
    それは本当に友だちなのか?
    気になったからとか虫が好かなからなど
    感性や直感とか言われるものではないのか
    もし理由があるならばその条件は
    他のケースでも当てはまるものなのか?
    感情とはいろいろと厄介な存在でもあるようです

    人間以外の対象を友だちと認めないとするならば
    ネット上での関係は?
    今も存在するかどうか判りませんが
    手紙でのやりとりだけの相手は?

  • #20

    鞠水 (木曜日, 20 8月 2015 22:48)

    仕事上の相手との友だち関係は?
    これも友だちの定義によって変わってくるので
    結論は保留として考えたいと思います
    考えたかったのは時間です
    フルタイムで働いている週休2日の人の場合で
    週に40時間
    1週間が168時間ですから約25%を占めます
    睡眠時間を1日8時間とすると活動可能時間は週112時間
    その場合に約45%を占めます
    もし仕事上では「友だち」の関係を築けないとするならば
    「友だち」を作ることはかなり難易度の高い事と
    推測されるのでしょうか・・・・

  • #21

    哲ーMETAL (金曜日, 21 8月 2015 00:47)

    哲学カフェをめぐる「友人」と「公共性」について書きます。
    哲学カフェを「場」としてその場限りの集団として捉えます。
    そこにみられるのは①1次集団である血縁家族ではない2次集団であること②自発的に選択して人が集まっていること③哲学カフェに参加するという目的で集まった集団であること④好き嫌いで集まっていない集団であること⑤明らかに意見が反対である人も含めて多様な価値観や意見の人が集まっていること⑥ファシリテーターと参加者、参加者同士が対等な関係であること⑦正しい真理を追究するということでは協力しあうが意見を一つにまとめるとか、多数決でものごとを決めることをしたりしないこと⑧参加者の発言を頭から笑ったり非難しない、否定や拒否をしない寛容さによって安心を与えること⑨個人的な体験を話してもブログやSNSなどで拡散したり余所で発表されたりなどしないプライバシーが守られるという明示されるか暗黙の約束で安全が守られていること⑩初めて参加する人や1度参加しただけで次回以降参加しない人、参加していても一言も発せずにという意味で「交流」や「交渉」がない人がいること⑪自己紹介をしないため匿名性が高い哲学カフェがあること⑫毎回メンバーが総入れ替えしていても可笑しくない即興的に生成された集団である可能性もあること
    以上の他にもあるだろうけれど、とりあえずこれくらいに。

    こういう集団内部には「ともだち」という関係や感覚は生まれにくいものと思われる。
    そこでは他人を「3人称」で語る表面的外見的なつきあいがあると思われる。
    しかし、繰り返し開かれる哲学カフェのリピーター同士で徐々に名前を知り自己紹介などもあったりすると「知り合い」にはなる。「知り合い」は「弱いつながり」「弱い紐帯」「弱い2人称」の関係とします。そこから一緒に食事をして雑談をするなどしていくと「知り合い」から、「仲が良い知り合い」=「ともだち」=2人称の関係が生まれる場合があります。中には「親友」=「強い2人称」の関係が生まれるかもしれません。
    「友だち」という言葉で全て一括りにするのではなくて、「知り合い」「仲がよい友だち」「親友」と区別して、その人がどのレベルで使用しているか区別し自覚することが必要かと思います。
    次に「公共性」です。
    多様な価値観の人が集まり、関心を持ち合い、多数の人に関わる問題について責任を持ち、互いに意見交換をしたり、交流をすることで、解決をするためのルールや行動が決定され、自発的に従うか強制的に従わせる関係が生まれることを長いですが公共性とします。
    哲学カフェは、嫌いな人どうしでも嫌いな感情をぶつけ合う場でなく、一つのテーマの解決のために協力しあう場であり「公共性」に近いところがあります。
    私が参加した幾つかの哲学カフェでは、哲学カフェを説明するときによく以下のような「物語」が語られることが少なくありません。
    過去において、「コーヒーハウスやカフェで市民が政治的な議論をしたことが市民革命を生んだ。」とか「多様な市民がサロンやカフェで交流したことから文化や芸術が発展した」から、現代においてそのような機会を再び哲学カフェのような場があちこちで作られることによって、「対話や交流が市民的連帯や共感などの「市民性」を育てたり、多くの人にとって共通の課題や問題について関心や責任感を持ち、異なる価値観を持っている人同士でも対話を行いものごとを決めたり決められたことを行動する「公共性」が育てられる。すなわち「哲学カフェ」はインフォーマル(非定型的教育手法な)教育あるいはノンフォーマル(非制度的な市民活動のような)教育となっており、シティズンシップ(市民性)教育になっている
     
    はやりの言葉ほど怪しいものはありませんが、哲学カフェは多様な人が集まる場=プラットフォームのような場として、そこで公共性が生まれやすいということかと思います。

    友達は単なる人どうしの関係でなく「親密性」というプライベートの世界であり、哲学カフェは「非親密性」が半ば含まれる「私」と「公」の中間ともえいる。
    「ともだち」はどのようにしてか公共(パブリック)へと繋がることはできるのだろうか。エンタメとして趣味として娯楽として楽しんでいる哲学カフェに、市民性を育てる教育を背負わせてよいのだろうか?

    残りの論を幾つか。
    facebookの「友だち」は「知り合い」と割り切った方がよいと思われます。
    少し前ですが「6次の隔たり」?でしたか言葉がSNSビジネスを称揚するために流行りました。「知り合い」の「知り合い」、そのまた知り合いと5人の仲介者をつなぐと世界中の人とつながることができる、という理論です。ネットビジネスばかりではないけれど「知り合い」とか「コネ」とかの拡大が目的になった感もあります。

    「親友」よりも「薄く広く多様な「知り合い」以上の友だち」が大切という話がこれも一時期はやりました。ロングテールとかいうアマゾンの商法を称揚するなかで言われたことだったかなと思います。「親友」とか同じ価値観の人同士からは困ったときの解決方法とかは得られない。親友も自分も知識や情報がほぼ同じだからだ。ところが深い関係の親友ではない友だちや知り合いの方が、自分が知り得ない情報を知っていて、問題解決の新しいアイデアや知識はそこから生まれる。だから友だちは薄く広く持った方がいい。かといって協力関係が生まれないほどの弱い知り合いではダメだという話しです。

    長文失礼しました。哲学カフェ当日が盛り上がることを期待しております。

  • #22

    鞠水 (金曜日, 21 8月 2015 11:13)

    哲学カフェと「弱いつながり」
    この組み合わせは興味深い
    「弱いつながり」は親友や家族など
    「強いつながり」にはない可能性がある
    困っている相手がいて
    自分にできることがあるから手助けする
    あるいは知識や経験のある人を紹介する
    それは友だち未満の知り合いなのかもしれない
    私を豊かにしてくれた
    うまく言葉にできない関係性
    いつかどんな形であれ表現してみたいものです。

  • #23

    たつみ (金曜日, 21 8月 2015 20:10)

    発車間際の飛び乗り乗車的なコメントで済みません。
    日本語の場合対話での相互の敬語のつかい方の程度が二人がどの程度の遠慮ない友達かをかなり明らかにするのではないだろうか、と思ったけれどもことはそれほど単純でもないのでは。幼友達とそのころに互いが、還った気持ちで遠慮なく語り合う場合と、成人してから知り合った友人と現在の自分たちに相応しい言葉で、互いにその人生の現在のステージで切実な話題で意味のある<哲学>対話をする場合を比べ、どちらが親密な深い関係にあると簡単に言えるのだろうか。

    総理の<お友達>ってどんな友だちなのだろう?
    その人が付き合っている人間(お友達)を見ることで、その人物がどの位分かると言えるだろうか?総理の<お友達>を見ることで総理のことはどの程度わかるだろう。

  • #24

    十二月田 (火曜日, 25 8月 2015 00:52)

    友達、親友、知り合い、仲間などの他者との関係性の分類は、個人の能力や状況により発生する分類であって究極にコミニケーション能力が高い人は、友達、知り合いという分類すら必要無いのかもしれません。