2013/12/14: 死はなぜこわいのか?

伏見 カフェ・ティグレで開催された哲学カフェです。

 

カフェの最中に言い足りなかったこと、言い損ねたこと、カフェが終わった後から思ったこと、など。もしありましたら、気楽にお書き込み下さい。

 

尚、ポストするには「名前」記入が必須となっていますが、これは本名である必要はありません。

コメント: 3
  • #3

    浜田 (火曜日, 17 12月 2013 10:24)

    「死はなぜこわいのか?」の中には、「死とはなにか?」「生とはなにか?」「あの世とは?」「この世とは?」「肉体とは?」「意識、記憶とは?」「生命体とはなにか?」「怖いという感情について」「ではなぜその感情がうまれるのか?」などなど…色々含まれています。
    知らないから怖い、だから探求する。「怖い」という感情エネルギーを「学ぶ」という行動エネルギーに変換していく。
    やみくもに怖がるより、楽しい事が増えて行きますよ〜。

  • #2

    浜田 (火曜日, 17 12月 2013 09:51)

    安田さん、司会進行役お世話様です。
    時間が1時間半と短い事、テーマが広大な事、これが正しいこれは間違ってるがない事(全て正解)、人によって捉え方が違うなどなど、まとめるのは容易でない事は周知だと思います。
    わたしももう少し知っている事を言ってみたいと思いましたが、みなさんが思いを話したいのか、何か違う観点での情報を得たいのかつかめず。。
    今の時点で思うのは、それぞれの方がそれぞれの方の受け取り方で受け取っていらっしゃると思うしか無いんですよね〜。
    その場を録画して観てみると、また違うものが見えてくるかもですね(笑)

  • #1

    安田 (日曜日, 15 12月 2013 12:04)

    当日司会役やっていた安田です。

    「司会やっていた」と言えるようなことをしていたか、は我ながら疑問です。思うところがあった方は、是非、メタ・フォーラムやお問い合わせで声をお聞かせください。今後の参考にさせていただきます。
    たとえば、一応司会という自覚をもってはいましたのでみなさんの考えを聞いて自分なりに思うところがあっても、自分の意見や質問は頑張って控えておりました。(これがなかなか苦手なのですが。)が、控え方にも問題があるな、と、当日振り返って思いました。もう少し要所々々で「これまでの議論」を整理するなどしてもよかったかもしれません。どう思われますか?

    いきなり話がそれましたが、本題。当日、みなさんの話をきいて浮かびつつも発言しなかったある疑問があります。それをここで質問させてください。「死の恐怖」が人間以外の動物にもある、と、そう簡単に言えるだろうか、ということです。当日、人間以外(以前?)の動物にも、自己保存本能のような自然淘汰進化論的な考え方で説明のつく「死の恐怖」があり、人間のもつ「死の恐怖」の一端もそれで説明つく、という考えが出ました。本能説、とでもいいますか。要は、この本能説の前提についての懐疑です。

    当日の「まとめ」発言で私は、「死の恐怖と一口に言っても、何についての恐怖かに関して少なくとも3種類に分けられそう」、と言いました。①肉体の死、②社会的な死(他者の意識・記憶から自分がなくなること)、③『自分そのもの』の死(意識したり思ったりする主体としての自分がなくなること)、についての恐怖、の三種類です。この類別にもとづいて言えば、おそらく本能説で説明つく「死の恐怖」は①かと思います。②と③は高度な自意識がなければありえないので。(以下、「死」という言葉で「肉体の死」を意味するとご理解ください。)しかし、①とても、生と死の区別という抽象概念がなければもちえない恐怖です。しかも、生死区別が生まれてくるのが「DNAのしかけ」ではなく経験学習によるものだとすると、当然、これは他者の「死」を通じて学習するしかなく、にも関わらず、そうやって獲得した概念を今度は「自分(の肉体)」に適用して理解できなければ自己保存行動につながらないわけです。でも、こういうこと全て出来る動物がいるとしたら、それは既にかなり高度な自我意識を持っている、と言っていいような気がします。

    「死の恐怖」が「DNAのしかけ」であっても、それが自己保存行動につながるには、やはり高度な自我意識がないと無理なようです。なんとなれば、各種の「死」につながる危険行動と「死」という結果をつなげることを学習しなければ、「死の恐怖」だけでは役に立たないからです。しかしこのつながりばかりは自分で経験できません。マウスがAレバーよりBレバーを押すのを学習できる原理は、あるいは、「Bを押すほうがより『快』な結果にいたることを経験し、その快経験がB選択を強化する」ということなのかもしれません。しかし、「死の恐怖」は、おなじような理屈では危険行動回避の学習動機たりえません。あるとすれば、他者において、とある危険行動が(その個体の)「死」に至る、という原則を学習し、それを自分に当てはめて行動選択に反映させる、という学習の仕方になります。高度な自意識なしにはありえない学習と思います。

    もちろん、各種危険行動と「死」の『つながりそのもの』が初めから「DNAのしかけ」で生まれてくるものならば、こんな高度に自己反省的な学習はいりません。でも、その場合、「死」が絡んでくる必然性がなくなるような気がします。各種の具体的な危険行動、危険物(高いところから飛び降りる、自分を捕食する動物など)に対する、特定対象の「不快感情」さえ「DNAのしかけ」で備わっていれば良い。「恐怖」ですらなくとも、たとえば体に痛みがはしるような「しかけ」でもよい。

    自然淘汰進化論で「死の恐怖」を説明するのって、意外と無理がありませんか?というより、恐怖、という感情を自然淘汰進化論で説明すること、に無理がありませんか?

    「怖い」という感情は、「今現在の状況」に向けられた感情ではなく、「今現在の状況」認識が強く喚起する「この次」「この後」に向けられた感情、という気がするからです。経験に伴う感情ではなく期待(いい期待か悪い期待か、は別として)にともなう感情、といいますか。だから「おいしさ/まずさ」「痛み/快楽」と違って、個人レベルで成立しうるような行動学習の動機ではありえないのでは。。。高度な社会生活を営み高度な自意識のある個体でなければ、行動学習に「恐怖」が絡んでくるということは原理的に考えにくいのでは。。。

    どなたかが言っていましたが、「死」はまだ誰も経験していないから怖い、というあたりがキーワードのひとつにならないか、と思いました。「死は誰もまだ経験していない」とは、経験した瞬間、その「経験者」は「誰も」という言葉がさす母集団、つまり「私たち」の枠から外れることになる、ということです。「死」は、「肉体の死」であっても、やはり、「私たちの一員」だったものが完全に、永久に、そうでなくなる、という社会現象(単なる社会現象とは意識されないことがその本質の一端であるような社会現象)であることが、その第一義のような気が、今、しております。

    いかがでしょうか?